(22)忘れゆくものを想う

4月に人事異動があり、担当業務が変わった。後任との引き継ぎについて、毎度いいものにしようと思えども、結局ばたばたなし崩しになってしまう。

新しい担当業務のことをどんどんインプットしていく中で、これまで当たり前だった知識が、急速に過去のものになっていき、思い出しづらくなっていく。

わたしは頭のデスクトップが狭いので、同じ密度で保持することは到底できないし、そうする必要もないと思うが、うまい具合に情報・経験を結晶化できて、必要に応じてトランザクショナル・メモリからデータを引き出せるようにできれば、それを後任に渡せばいいし、渡せなくても後任からの問い合わせに対応できるし、これからの私のキャリアにも活きると思う。つまり、いいことづくめなのだが、いかんせん時間とスキルが足りてない。

ひとつ考えられるアプローチは、人事異動がなくとも、定期的に情報・経験の結晶化の機会を設けること。そうすれば差分アップデートで対応できるし、最悪アップデート前のものをそのまま渡してもいい。時間的に余裕ができる時期、たとえば夏休みの時期などは好機なのでは。

もうひとつは、人の手を借りること。異動する本人の持っている情報を、誰かと話しながら整理していく。それは普段一緒に仕事をしている人(上司など)でもいいし、人事や社外の専門人材でもいい。人事異動は社内で一斉に起きるから、後者なら時期をずらす必要があるかもしれない。

そういう専門人材が仕事になるにはどうすればいいか。まずは今の共有されている知見を確認してみよう。きっと大したことないものが転がっている。それの問題を捉え、改善点と改善したものをまとめ、人に見せてみる。その前に自分や周りの人で試行してみる。改善に価値が認められたら、組織として共有してもらう。その際、自分にアクセスできるようにしておく。モノを介した一方的なコミュニケーションから、直接的なやりとりによる双方向的なコミュニケーションに移行できれば、あとはその実績を積み重ねていけば、いつのまにか専門家になっている。

(21)散歩

最近、朝6時くらいに起きることが多い。

洗濯機が動いたり動かなかったりするので(主に動かない)、

近所の公園脇にある、コインランドリーに通っている。

家にいて、どこか遠くで聴こえていたラジオ体操は、

近所の公園でやっていた。

おじいさんの脇を通りぬけ、かごいっぱいの洗濯ものを

丸い蓋の金属の箱に放り込んでいく。

わたしは機械の好き嫌いが激しいが、この機械はかっこよくて好きだ。

乾燥まで終えて取り込んだ服のぬくもりを抱え、

まだらに湿り気の残る服をハンガーに通してもうすこし干す。

 

出勤前に寄り道をするため、いつもと違う駅で降りる。

スケアクロウの真似事。

あちらとこちらが立たない、バッティングしてしまった状況に挟まれて、

どうしたもんかとぼんやりしているうちに、

どちらもそれなりにあたためられる方法を見つけ、ひそかにほくそ笑む。

自分の見えるところにあれば、大抵はそうやってなんとかなるが、

あるところから先にいくと、まったくあるいはほとんど見えなくなってしまう。

無知にアクセスするには、いくつかの前提があるようだ。

(20)フラストレーション、モードの切り替え

こうあってほしい、こうありたい、こうあるべき、というイメージと、

いまの状態についての認識が、ずれていると、

おちつかなさを発生させる。

現状を理想に近づけようとしたり、

変化をとどめているものを批判したり、

あるいはただそのおちつかないきもちを抱え続けたり。

それはかなしみだったり怒りだったり、あせりだったり、

胃をきゅっと締め付けられる感じだったり、

ぽっかりと穴の開いた感じだったり、黒い霧が張っている感じだったり、する。

PFスタディのことを思い出した。

それをすぐに行動に移して処理するひともいれば、そうでないひともいる。

 

ぽんと投げられた、放ってはおきづらいものに対し、

人はそれぞれの方法で反応する。

その違いが大事な場合もあれば、そうでない場合もある。

 

守ることと関わることは、両立できない場合がある。

だから絶対的な正解が言えなかったりするんだ。

(19)ヒトとコトのレイヤー

あるひとの特定の言動を批判すること、

ある種の言動を繰り返す人に内在するであろう特定の性質を批判すること、

あるひとがある役割を担うことを批判すること、

あるひと全体を批判すること、

ある属性をもつ人の集合全体を批判すること。

 

特定の言動への評価と、あるひと全体の評価を、

まったく別のものとして切り分けて、

前者は行うべきもの、後者は行うべきでないもの、

というスタンスは、わかりやすいけど、

現実はそうでないし、わたしはそれを目指すべきとも思わない。

 

肯定的に評価している人の言動について、

否定的に評価すべき場合があるというのはわかるし、

人の評価につられて、普段の自分の持論と対立することにさえ

肯定的な評価、あるいは寛大な評価を行うか、言及を避け、

つっこまれるともにょもにょするのが気持ち悪いのは、わかる。

それが最初に述べたスタンスを背景にしているのは間違いないけど、

でもそれを極端に主張するのは、レトリックだなあと思ってしまう。

 

異なるレイヤーが連続していて、

見えやすいレイヤーと見えにくいレイヤーがある。

見えやすいレイヤーに引きずられることはありがちだ。

人単位のレイヤーに引きずられる人もいれば、コト単位のレイヤーに引きずられる人もいる。

自分のスタンスを正当化したくなることはありがちだ。

言葉が得意ならばなおさら。

幸いながら、ある範囲で言葉の力を強めに割り振ってもらえたのならば、その使い方は、ありがちをなぞるよりももっと主体的に使いたい。

 

信用できる人と信用できない人。

感覚的にはわかるし、あながち間違っているとも思えない。

ただ、悪意ある言葉を防御するための方法としては、効率はいい反面、なにかを犠牲にしているように思う。

わかっててやっているんだろう。

単にわたしはそこの整理がついてないというだけだ。

 

(18)アイパッドミニは例外

iPhoneは持たない、スマホも基本的に持たない、

Apple社製のパソコンは買わない、という、くだらないこだわりを持っている。

くだらないというのは、それらがわたしに似合わないと思っているからだ。

なんか、カッコつけてるみたいな風になっちゃうんじゃないかと思って避けている。

 

実際には、別にカッコつけてる風になるとも限らないだろうし、

仮にカッコつけてる風になったとしても、便利なら使えばいいだろうとも考える。

わたしの中に非合理的な信念があって、それが非合理的だとわかってはいながらも、

わたしはその信念に従って行動を決定している。

 

一方で、わたしはiPad miniをこよなく好んでいて、かなり依存している。

なんでiPhoneはダメでiPad miniはいいのかというと、

あの大きさがちょっとダサいと思うからだ。

iPad miniがダサいというのは、あまり同意されない主張だと思うし、

他人のiPad miniをそう評することは決してないのだが、

それでも自分の中ではこれまた確たる信念として存在している。

ここまでくると相当非合理的だ。

感情に後づけで理屈を当てはめていると言われても、否定できない。

 

法則というものには、さまざまな射程がある。

古今東西普遍的に通用する法則も確かにあるが、

ある範囲を超えると怪しくなったり、時が経つと正しさが変わるものもある。

後者のものを、間違っていると棄却するのはもったいなくて、

ちゃんと正しい範囲で運用してあげればちゃんと価値を発揮する。

 

けっこうな不幸が、射程の読み違いから生じているんじゃないかと思う。

言説というものは、一旦放たれると、本来想定していた射程を軽く飛び越えて、

いわゆる「言葉がひとり歩きする」状態になりやすい。

いかに鎖をつなぐか、クリエイティブコモンズの表記みたいなものが、

ないものかしらとふと思った。

(17)抵抗

未来を予想する一番の方法は、自ら創造することだ、

という言葉がある。

あるひとがこの言葉を気に入っていて、わたしは直接知っているわけではないが、

それでもいい言葉だと思う。

学習性無力感の反対、自己効力感を支えるマインドセットだと思う。

 

ただし、どんなものでもバランスが大事で、

よいものでもやりすぎると害が出てくることがある。

複雑なのは、誰かにとっての害が、別の誰かにとっては益となることだ。

 

創造、という言葉にどれだけの意味を担わせるかは、

数年来悶々としているテーマだ。

いまだに、この言葉とのうまい距離を見つけることができていない。

 

気になっているのは、未来というものは、まったくの白紙ではなく、

どんな未来でも、過去を生きた人がおり、過去の積み重ねがある。

歴史が苦手なわたしにだって、それくらいわかる。

そのとき初めて出会った人と関わるとき、

その人がこれまでに歩んだ人生のことを想像する必要がある場合がある。

 

しかし、普遍の物理法則が新たに発見されるように、

過去の歴史もまた、新たに発見されたり、修正されたりする。

 

なにか価値のあることをやっている人たちは、

その価値を台無しにしようとする力に対し、抵抗しなければならない。

生存しようとする人が、自分を殺そうとする人から抵抗するように。

人が怒るのも、つまるところそういう、自分の大切なものが脅かされるときなのかもしれない。

 

大切なものは、目に見えないこともある。

それが大切なのだと、わかりにくいこともある。

失って初めて気づくこともある。とりかえしのつかないこともある。

 

いろいろなことがつながって、浮遊している。

 

(16)支援者

 

誰かを支援しようとしたとき、

ぱっと見と同じような問題でも、正解は異なりうる。

支援者の立場からすると、こういうときに取りうるいくつかの選択肢の中から、

どれをベースにするか、そしてどうチューニングして実行するかという課題がある。

 

一般的には、どんな問題でも解決するような解決策などはなくて、

個々の状況に応じて正解は異なる。

だから、問題解決の前段には、よく話を聞いたり調べたりして、

これがどんな状況・問題であるかを特定した上で、解決策を特定する、

あるいはアタリをつけて、そこでやっと解決策の実行に進む。

 

この前段と後段の過程は混じることもある。

大まかな情報を把握した時点で当面実行する解決策を決定し、

その効果を見ながら、状況・問題把握を深めるような場合だ。

 

個々の解決策には効果と副作用があるから、

ある程度効果があるだろうと思える解決策であっても、

副作用の影響が心配な場合、実行を避けたり、副作用を減らす工夫と併せて行う。

 

適切に使えば効果のある解決策でも、使う場面を間違えると、

効果が出なかったり、害を及ぼしたりする。

だから、支援のしかたを検討するとき、状況・問題と解決策とがマッチしているか、

という観点はとても重要だ。

前に似たような事例でうまく行った体験があったり、

似たような事例でうまく行った話を誰かから聞いたことがあると、

同様の解決策が今回も役立つのでは、と思うが、

実は早とちりだったりする。

ミスマッチも、おおもとの方向性から間違っていることもあれば、

ちょっとしたチューニングが合ってないような場合もある。

 

ミスマッチ以外の部分で、ある支援が批判されることもある。

たとえば、ある方法は、どんな状況であっても選ぶべきでないとされる。

多くの場合に害をなしたり、その害が致命的だったりする場合、

たとえわずかな事例で役立つことがあっても、選ぶべきではないとされる。

あるいは、その方法に通底する理念が極めて認めがたいような場合。

 

それから、目指すべき目的が批判されることもある。

その場合、たとえ目的を達成したとしても、よくないとされる。

 

批判の対象である「わるさ」をどこに帰属するかということも、いくつかの観点がある。

個人に帰属する場合と、環境に帰属する場合。

環境というのも幅があって、単にきっかけとなる刺激を指すこともあれば、

反復して同じような問題を生じさせるしくみ、構造を指すこともある。

個人といっても、行為を行った者、行為を受けた者、管理監督者、周囲の者など、

いろいろな捉え方がある。

 

パターン・ランゲージが捉える「よさ」と「わるさ」。

 

(15)ディスる - LoS (Locus of Scent *2)

(12)人を助けるとはどういうことか? - LoS (Locus of Scent *2)