ハビリテ(9) ライフ

わたしの人生上の上がり下がりは、常にわたしと外界との相互作用によって生じてきたものだ、という感覚をいっそう強めた日曜日、だからして、チョキなわたしはパーの前では浮かれ、グーの前ではあっさり沈む。わたしを沈めるのはひどく簡単なことだ。
とはいえ、沈むと死ぬのは少し隔たっている。昔は沈むことを死ぬことだと思っていたが、よくよく見たら、堅くつぶった目を恐る恐る開いてみたら、わたしはどうやら死んではないようだ。わたしの一部は確かに死んでしまったのかもしれない。でも、わたしの一部が死ぬことと、わたしの全体が死ぬこととは、やはり少し隔たっている。
死ぬというのは、もう主体的には変化し得なくなるということだ。死んでも、燃やされたり、切り開かれたり、溶かされたりして変化することはできる。しかしそこに意志はない。ただ客体として変化し、不変するのみだ。それは相互性がなくなるからだ。片方が閉じてしまえば、固まってしまえば、そこに疎通はなくなる。一方的な作用しかなくなる。
沈むと死ぬは繋がっている。部分の死と全体の死はどうしようもなく繋がっている。沈むことは苦しくて、その苦しみから逃れようとして、固まろうとする。固まってしまえば、苦しむことはもはやないからだ。それはとても自然な力動で、水が低きに、煙が高きに流れるように、苦しみは固まりを産もうとする。
同じような固まりでも、動きのあるある固まりは、死んだものとはまるっきり異なる。動きのある固まり。動きのある固まり。