夏物語(3)ハビリテ

風邪を引きかけている。能力が、発揮されなければ目に見えないように、病も、目に見えるかたちの様相と、それがからだの中でもやもやとうごめいているような様相とがある。そして、主体であるわたしが、それを目に見えないようなかたちに整えることと、それが果たしていいことなのだろうかということを、少し考えている。目に見えないものも含めて世界。
さらに言うと、個人個人が世界を持っていて、それらは部分的に重なり、大いに隔たり、そして時とともに動く部分と、変わらない部分がある。そういう全体的な、時も含めたコンステレーションを、ぼんやりと描くことができるようになったなら、打つ手がないようなときに光が差し込んだり、区別がつかないものに優先順位をつけたり、絶対に避けるべきものをのけることが、すこしは少しはできるように、なったりするのではないか。

毎日ブログを書くということをやりたい。ブログでなくともいい。言葉でなくともいい。1日に1度、15分くらいは、自分の殻に閉じこもって、自分を見つめる時間を作れるといい。それができるなら、5分だってかまやしないが、わたしはまだうまくできないので、たぶん15分くらいは必要になる。いろいろな方法のうち、わたしがある程度うまくやれる方法が、ブログであったり、紙にえんぴつで書く方法だったりするのだ。
そしてわたしは、そこから積み上げることをしたい。向き合うことは、むかしはそれなりにできていた。一時期よりは、いまはできなくなっているではないかと思う。それは、社会人になって、演劇や心理というものと少し遠ざかっていたからのように思う。そして、その間にわたしが得たものは、それまでのわたしになかったものがとても多く、それがだんだんと溶け合って、わたしに馴染んでいくと同時に、むかしのようにはやれないこともちらほら色を出していく。

わたしは前任の彼女のようにはきっとやれやしない。でも、そういう言葉を聞いているうちに、うのみにするわけじゃないが、でもわたしはそういう役割を、個人的なもの以上に期待されているのかもしれないと思う。そう思うと、重いなっていう感覚と、小さく小さく、わくわくするような感覚も一方で生じてくる。仕事というもの、個人の価値観、世界観としての仕事と、世に出ている求人と同じ意味で使われる仕事、リトルトーキョーでわたしが見つけられなかったもの、それらはいろいろなかたちでわたしのまわりを舞いまくっている。その圧倒的な風景に、立ち尽くすか、あるいはどのように一歩を踏み出し、手を伸ばすか。いろいろな仕事があることを、忘れてはいけない。

仕事でやりたいことを振り返るちょうどいい機会をいただいた一方、そういう枠を外したところで、わたしがやりたいことを見つめてみる宿題を自分と他人に出してみた。それは、正解のない作業で、のたりのたりと、プロセスを進めることはできる。どれだけ進むか、それが未来のわたしに何を伝播するか、まわりの人に何を伝播するか。それはこのブログのタイトルにもなっている、かぐわしの所在だ。きれいには、ならない。きれいにはならないのだけど、それでも、それゆえに、残り、伝わり、何かを決定的に変えて、去っていくのだ。