夏物語(5)ごちゃごちゃ

(1)テキスト
なるたけわかりやすく、でも共通項でくくれる程度までにしか踏み込まない骨組みを示したあとで、第2章はもう具体的な事例を典型的なバリエーションごとに説明するというスタイルは、確かにポイントを押さえていて美しいが、少し飛ばされるような感じがする。これはテキスト形式の限界なのか、あるいはわたしの事例に対する吸着しなさ感がもたらすものなのかと、構成を改善するほうにはあまり頭が向きにくいが、でも3カテゴリで1つずつくらい、方策が見つかるといいな。

(2)カオス
物事には、ほんの少しの違いが大きな違いとなる(当事者にとってということのみならず、第3者など、隔たった観測点においても)ようなものが、実はあり、それは、教育というパッケージのコンテンツの中では、現実の数よりも扱われない傾向にあるため、わたしたちの頭の中と現実で規模感にへだたりがあるのではないか。言い換えると、思っているよりもそういうことはありふれているのではないか。それまでは、ざっくりわかることは大体の正解を導き出せる。一般的には、細かくわかるようになるよりもざっくりわかるようになる方が(適切な方法さえあれば)コストは低い(アウトプットできるかはまた別の話)ので、前者が好んで採用されることがよい方法とされる。しかし、その戦略が通用しない世界では、細かくわからないと、答えを出せないか、まったく違った答えを出してしまう。自らが望まない結論を出してしまったりする。昔、天気予報の本を読んだときに出てきた、カオス理論という言葉を思い出した。

(3)コスト
時間やお金や気力が限られているとき(限られてないと感じられるぐらいに限られてない人も、どうやらそれなりにありふれているようだが、それは置いておいて)、どれにどれだけコストをかけるのかという判断をすることが大事になってくる。判断にどれだけコストをかけるのか、どのように判断するのかも、それ自体判断となる。直観に従うのも、マニュアルに基づくのも、可能な限りデータを集めて熟慮するのも、即効で人に聞くのも判断の判断。自分が重視してる事柄について、それを重視していない人と話すことの難しさと似ているかもしれない。

(4)抑圧の力動
ある社会的なことがらについて、2つの意見がぶつかっているとき、ある程度の人達は、賛成だとしても、反対だとしても、その意見を表明することにためらいを感じるのではないか。自分たちの回りには自分と同じ意見が選択的に集まるようになり、またあるいは過敏に反対意見を収集したりするが、意見の表明が抑えられた人たちの存在によって、実際の分布と表に出るものとは隔たりが生じているのだろう。その大きさがどのような出来事を起こすのか、個人の中で、意見を表明するかしないかという葛藤もさることながら、社会全体のどんでん返しはそういったものにある程度起因するのではないか。意見表明を抑圧されることが何をもたらすか、そういったことに知らずに加担してはいないか、考えてみたい。