旅のはなし(1)本を読むのは旅をするかのよう

使い古されたアナロジーかもしれないが、ふと、「本を読むのは旅をするのに似ている」と感じた。
エドガー・シャインの「人を助けるとはどういうことか」を読んでいるときのことだ。

なぜそんなことを感じたのか、「旅」ということばにわたしはどんな意味を込めているのか、考えてみよる。

ひとつは、普段生きている現実世界、現実生活とは別の世界がそこに広がっていること。
今まで頭の中の多くを占めていた、望む望まないを問わず占めざるを得なかったことが、すうっと背景に退いていることに気づく。
それらをすっかり忘れているのではなく、しかし重みづけが軽くなっていて、違った視点で捉えることがやりやすくなる。
元いたところと旅先は、持ち越したものでゆるやかにつながっている。

もうひとつは、終わりがあるということ。
現実の旅のように、ひとつなぎの読書もあれば、日常の合間合間に差し込まれる、断続的な読書もある。
しかし、どちらにも共通しているのは、終わりがあること。
連載中の作品や、未完となった作品には、多くの本が備えている「終わりがあるという約束」がない。
終わりまでのスケールはさまざまで、数分、もしくは数秒のこともあれば、数年に渡ることもあるが、いずれにせよ、始まりがあり、終わりがある。

ただし、終わりを定めない旅というものもある。
終わりの限界を超えようとしている本もある。

読書と旅をつなげたとき、その線の上にはたくさんの作品や、行為が並んでいる。
それらも突き詰めていくと、旅という要素があるのではないか。

現実と旅先は、定義上へだたっている。
それらを行き来するときに、持ち越せないものもあり、持ち越せるものもある。

行って帰ってきたとき、行く前の自分とは、なにかが変わっている。
なにか世界の見え方が変わっている。

そのささやかな違いはだんだんと大きく分岐する、こともあるし、
回収されて、なかったかのようになってしまうことも、あるだろう。