結局夜学バーを想いお金の血液

平日はじっくり考えることなんかできにくくて、ただ息をすることも忘れてしまったりしがちなので、それを思い出すためのブログを書く。ツイッタでも針の穴が開くようだけれども、ブログーはもうすこしまとまった穴が開く。

2つ前の記事でパソコンのモニターが直った記念の記事を書いたが、それは1日後にまた映らなくなってしまったので、直ってなかったとも言えるが、1日だけ直ったのだとも言えよう。どちらでもいいなら楽しいほうがいい。

帰りみちにコンビニの誘惑に耐えて家に帰り、お湯を沸かして飲む。これが正解だという感じがすごくある。大きな視点では間違っているのだけど、なぜなら終電帰りなのだから。大きな視点と小さな視点が、シンクロしてたり真逆になってたりするのおもしろい。

すてきな友人はしばらく会っていなくてもおそらく元気にすごしていて、ツイッタなんぞで近況を知れることもある。すてきなお店もツイッタなんぞで近況を知れるが、しばらく行っていないと閉まってしまったりするのかもしれない。
でも、すてきな友人が形を変えながら生きているように、すてきなお店も、形を変えて生きていくのかもしれない。しかし、そうでもなく、なにかがなくなってしまうのかもしれない。生きつづけることだけが正しいものでよいものだとは限らないとは思っているけれど、どうしたってお金の血液を流さないとならないものはどうやらあるらしい。

わたしのからだも、ある程度はお金の血液が流れているのだし。
しかし、行きたいと思わないのに行くというのも、なにかちがうような気がするし。
いや、べつに、行きたいと思わないわけではないのだ。忙しくて、体力の残量がなくて、行こうかなと思ってもいやしんどいなと思うだけなのだ。そしてそれはそんなにかなしいことではないと思うんだが、どうなんだろう。