インフルエンサーと学び

家族が立て続けにインフルなんとかに罹患して、
わたしはまだ診断がおりていないだけだと思われる状態。
大した諸症状が出ていないが、会社に行っていいか気になる。

ふだん問題なく回っているコミュニティシステムにこういう問題が生じて、構成員が機能制限を受ける。誰かがやらねばならないことを、別の構成員が担ったり、外注したり、やり方を変えたりする。なんとかその場を凌ごうとする。構成員が所属している別のコミュニティにも影響が生じるが、そこでもなんとかやりくりが行われる。
単純にインフルエンサーが感染していくのとは別にそんなことが起こっている。感染についても、それを防ごうとして、マスクに加えて普段しない手洗いうがいをしたり、人のいるところに出ないようにしたりする。こうしてインフルエンサーは、人間の負のフィードバックによってその影響力を制限される。

転んでもただでは起きない、じゃないけど、こういう経験からこそ学べることがあるような気がしている。危機をやりすごした解放感と、その間手つかずだったタスクに追われて、それを掬うことを置き去りにしてしまうことはありがちだけれど、わたしらは相当程度に経験に制約されていることは事実なので、経験を活かして学びを引き出すことができるととてもよい。

最近、パターン・ランゲージ界隈のことを考えたり、仕事場のチーム作りに取り組んでいる中で、知と学びの力動について考えることが多い。OJTの強みと弱み。学びの文脈性。濃密さと偏り。体系化された学びはやはり現場を少し離れないと得難い、でも離れすぎると現場に生かせない。この距離感のジレンマは、本質的な問題だと思う。どう絡ませていくか。
静的なものと動的なものも、そんな感じで、完成されたパターン・ランゲージのような静的なものは、うごきを生み出したり、逆にうごきを阻害したりする。その力動についても常にアンテナを張り、そこに踏み込んでいくという、自らの皮膚に針を刺すような、時に見えず、時に痛みを伴う行為なのではないか。