離れて近づいて確かめる何かを

ネットにつながる端末(アイパド)を忘れて出かけたのだが、これはよいかもしれない。見すぎることがなくなる。意思の力でなかなかうまくやれないことを、物理の力で補う。ちょうどぴったりを目指さずに、多すぎたり少なすぎたりの中でバランスを取る。あとは、何かが常にあるのは視野を固定する(よくない意味)ので、はがせるものはたまにでもはがせるといいという哲学にも沿っている。これからも「アイパドを時々忘れる」ことにしよう。

出会いの機会があっても大体は覚えらんなくて繋がらない。あたりさわりのないプロフィールをなぞることはどうでもよいのかも。それは手段として割り切って、その人の思い入れがどこにあるかを知ることと、逆にこちらが伝えることをして、共鳴するか確かめてみてはどうか。そこに最短で辿り着きたい。

— 遠藤さと (@pluterbulter) 2018年3月4日

こないだこんなこと呟いたのに、今日は超絶あたりさわりのない話題で間合いを測ることに徹していたわたしだった。安定してできるようになるまでに、わかってるけどできない、時々はできる、というステージを通る道の半ばだと思おう。

— 遠藤さと (@pluterbulter) 2018年3月10日
わたしのまわりに矛盾は満ち溢れていて、その少なからずはわたし自身が生み出している。しかし矛盾はしばしばうんざりさせるから、頭の中で矛盾を消し去ってしまおうとする(物理的にもそうするならそれはそれでよい)。すると現実がどんどん見えなくなってしまう。矛盾を目の当たりにして、疲れてしまわないからだとこころを、もちたいものだ。