(06)障害受容という言葉

野口晃菜さんという、特別支援教育の専門家がいる。

株式会社LITALICOの役員を務めながら、その他にもさまざまな場で活動していて、

すこし前からnoteでも情報発信をしている。

 

私は、彼女の情報発信を楽しみにしている読者のひとりなのだが、

去年の夏ごろにnoteに投稿された記事で、最近またコメントされているものが、どうにも引っかかっている。

「障害受容」という言葉の身勝手さ|野口晃菜|note

 

短い文章なので、まずは読んでもらえたらと思うが、私がこの記事の内容として理解したのは、

障害者支援の現場(子どもであっても大人であっても)で使われている「障害受容」という言葉に対する問題提起だ。

この言葉は、私の理解では、自分に障害と呼ばれる、身体的・精神的な人との違いで、永久または長期間継続するものが存在することを、自分ものとして受け入れるということを指すと思うのだが、

この記事では、その言葉がある価値観や方法論をも表している印象を与えるという。

 

その言葉は、まるで「障害」を「受け入れる」ことのみが善であること、そして「受け入れ」ていないことはその人が悪いかのような、そして「受け入れ」ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。

 

私は、障害受容をそういう意味で使っている人がいるという事実には同感だ。

そして、そのような使い方が問題、つまり本人の支援になっていなかったり、支援者として不適切な場合が往々にしてあるとも思っている。

ただ、それをもって、「障害受容」という言葉自体を否定するのは、飛躍があるように感じる。

障害受容の効果と限界を知った上で、目の前の人にとって何が一番助けになるかを模索している人や、たとえ本人が受け入れることを否定したとしても、専門家として障害受容に向けたアプローチを取ることが自分にとって最善の手だと判断することもある。

 

確かに、言葉の持つ力はとても強い。

あたらしく作られた言葉が、人々が世の中を見るための構えを提供し、特定の価値観を誘導することもあるだろう。

だから、政治の世界で、同じ現象に対して、与野党で異なる呼び方をするようなことがあるのだろう。

差別用語を使わないようにしようというのは、差別用語が含意する価値観が、ある人たちの人権を侵害する、認められないものだからだ。

別の極端な例をあげると、「障害」という言葉が存在すること自体がよくないと考える人もいる。

(このことについても、思うことはあるけれど、それはまた別の機会に。)

 

ここまで書いておいてなんだが、この記事が「障害受容」という言葉を否定までしているかは、なんとも言えないと思っている。

文字で書かれているのは、「障害受容という言葉の身勝手さ」「障害受容に関する研究が嫌い」ということだ。

先に書いたような、迷いながらも障害受容というアプローチと向き合っている人がいることも、野口さんは承知済みでこれを書いているのではないかと思う。

 

ある人にとってはこの記事を読んで、自分が普段から思っていることを言語化されたようですっきりするだろうし、私にとっては引っかかりが浮かび上がるきっかけになった。

よい記事だと思っているが、私は野口さんがいうような批判すべき障害受容の使いかたと、価値を認めるべき、あるいは中立的な障害受容の使いかたを区別する言葉がないかなと思っている。

(2/23 名前が間違っていたのを修正しました。)