(14)多様性について
月曜のdiversity drinks、LGBT×障害の回に行きたかったが行けなかった
から、というわけでもないのだけど、
ダイバーシティーとかインクルージョンという言葉が気になっている。
これはもう同床に異夢に異夢に異夢を重ねるものだと思っていて、
このふたつの英単語も、ほとんど同じような意味で捉えている人、
第1段階と第2段階と捉えている人、両輪と捉えている人、
とにかく共有してるようで3Dメガネのようにずれまくっている。
多様性とは認めあうことではなく、干渉しないことだ、
という言葉を取り上げたツイートを見かけた。
私が思うのは、多様性は認めあうことで、干渉しないことだ。
逆に、どちらかがなかったら多様性なんて成立しえないと思う。
誰かにとって図と地なものが、別の誰かには地と図になる。
同じ人でもある瞬間、あるいはゆるやかに、図と地と地と図は入れ替わる。
5分5分がちょうどいい人もいれば、8割認めたい人も、99.7%人と関わりたくない人もいる。
おのおのが、おのおのの丁度良さを実現すべく、実践できる、
それが多様性の土壌なんじゃあるまいか。
ただ、思うのは、全体としてはそういう、ブレンドされたものがよくっても、
言論の世界だとそういうものはパンチがない。
極端なくらいエッジが効いた、ツンッツンッにトンがった主張こそが、
沢山のいいねを集めたり、アンチとの議論を呼び起こしたり、
つまりコミュニケーションを生み出し、社会システムを維持する。
その中で発信者は差別化され、役割を果たし、価値を稼ぐ。
言うこととやることは、正解が異なる。
異なるものに同じ回答を重ねるのは、
マークシートを全部同じ数字で埋めるようなもんだ。
誰もが自分なりのダイバーシティを求め、そして秩序をも求めている。
誰かのダイバーシティと誰かの秩序はバッティングしうる。
許されないダイバーシティとか、許されない秩序とかが言われるが、
それは壮絶な闘いの中で獲得されるものなのだ。
たとえそれがえ空気のように永続すると思えても、
いつ根こそぎひっくり返されるかはわからないのだ。