(19)ヒトとコトのレイヤー

あるひとの特定の言動を批判すること、

ある種の言動を繰り返す人に内在するであろう特定の性質を批判すること、

あるひとがある役割を担うことを批判すること、

あるひと全体を批判すること、

ある属性をもつ人の集合全体を批判すること。

 

特定の言動への評価と、あるひと全体の評価を、

まったく別のものとして切り分けて、

前者は行うべきもの、後者は行うべきでないもの、

というスタンスは、わかりやすいけど、

現実はそうでないし、わたしはそれを目指すべきとも思わない。

 

肯定的に評価している人の言動について、

否定的に評価すべき場合があるというのはわかるし、

人の評価につられて、普段の自分の持論と対立することにさえ

肯定的な評価、あるいは寛大な評価を行うか、言及を避け、

つっこまれるともにょもにょするのが気持ち悪いのは、わかる。

それが最初に述べたスタンスを背景にしているのは間違いないけど、

でもそれを極端に主張するのは、レトリックだなあと思ってしまう。

 

異なるレイヤーが連続していて、

見えやすいレイヤーと見えにくいレイヤーがある。

見えやすいレイヤーに引きずられることはありがちだ。

人単位のレイヤーに引きずられる人もいれば、コト単位のレイヤーに引きずられる人もいる。

自分のスタンスを正当化したくなることはありがちだ。

言葉が得意ならばなおさら。

幸いながら、ある範囲で言葉の力を強めに割り振ってもらえたのならば、その使い方は、ありがちをなぞるよりももっと主体的に使いたい。

 

信用できる人と信用できない人。

感覚的にはわかるし、あながち間違っているとも思えない。

ただ、悪意ある言葉を防御するための方法としては、効率はいい反面、なにかを犠牲にしているように思う。

わかっててやっているんだろう。

単にわたしはそこの整理がついてないというだけだ。