(36)人と関わる難しさ

睡眠生活と食生活は、取れたり取れなかったりという荒れ気味で続いているけれど、消化器に配慮した内容にしたりするあたり、生きようというベクトルは根づいているような気がする。あるいは楽になりたいだけか。
あるがままを受け入れることは、それなりにはできるけれど、だんだんと外側とのギャップが大きくなってきてだんだんと辛くなってくるので、チューニングのレパートリーがもうちょっと増えるといい。具体的にはリラクゼーションとか、それ以上に難しそうな集中力とか。
とりあえずやれることからやってみる。

 

選挙で投票するということは、いきなり選択を迫られても、どうしたらいいのかわからないという人も多いんじゃないかな。
最近、改めて組織論を考える機会に恵まれているのだけど、人を動かすというのは簡単なことではない。職場での権力とか、サービスの買い手みたいに、人を動かすのは簡単だというイメージが張り付いてしまっているのかもしれない。
既に絞り込まれた結論があって、そこに他人を誘導したいというような場合は、それが客観的に是とされるかという論点が生じる。少し根っこのほうで、なにかに関心を持たせるとか、なにかについて考えさせるということは、即座に害を及ぼすことは少ないかもしれないが、同等以上に難しいことだ。
「◯◯党に投票しよう」よりは、「選挙に行こう」のほうがマイルドだろうが、それでも関心のない層の大部分にはアプローチできない。投票率を上げることで自分たち世代に得があるということを信じられるか、それが本当にいいことなのか、深い考えなしに決めた一票が悪い影響をもたらしはしないか、生真面目にそんなことを考える人にとって、投票放棄という選択は、少なくとも心理的には十分に合理性があるように思える。
「健康診断を受けよう!」とか「差別はよくない!」とかは、真っ向から反対する人はいない分、国民運動はシンプルでやりやすい。ほんとは、「禁煙を進めましょう!」とかも、反対の人はきっといるんだけど、大っぴらに声を上げられない。
選挙は、投票行為だけ切り出してしまうと、どうも薄っぺらくなってしまう気がする。お祭りにして、勢いで投票させるのは、ある意味有権者をバカにしているようにも思う。

 

自分の考え・気持ち・理屈を言葉や態度に示すのは、誰にでもできることとは限らないが、それなりの手続きを踏めば、それなりにはできることが多い。だけど、それが対話を導くか、相手に響くかというと、それはまた別の話。話し手の想いの強さが受け手の心を動かすこともあるだろうが、それは、想いさえあればいいということとは全く違う。ある種の人に有効な方法が万人に効くとは限らない。

本当は、声を聞くことから始めるのがいいのだろうけど、関係がないと、声を聞くのも難しい。築いた関係だって、容易に崩れてしまう。

どうしたらいいものか。それでも考え続けて、実践し続けるしかないんだよな。