(49)つらい。

最近生きていて、「つらい。」と思う瞬間が多い。
周りに人がいないところで、つぶやいている。

 

自分のつらさを、他人をまじえて取り扱うのはけっこう難しい。
一般的にも難しさがあると思うが、私の場合は特に苦手だ。
つらさを人に話すのは、それだけでも痛みが伴うし、
受け取られ方では、さらに上乗せの痛みが発生する。
ただでさえつらいところに、開示の痛みと受け取られない痛みが上乗せされたら、
それだけでもう、瀕死状態だ。
だから廊下でちょっと足を止め、下を向いてつぶやくんだ。
ほとんど人のこないブログで、誰にともなくつぶやくんだ。

 

客観的には自分より遥かに壮絶な状況で、弱音を吐かずに頑張っている人がいる。
それは知っている。詳しくはそんなに知らないが、なんとなくは知っている。
人よりつらいというつもりはない。ただ私はつらいんだ。
このつらさが自分の原因や責任によるものが少なからず含まれていることも知っている。
対処できるほど深く知ってはいないが、なんとなくは知っている。
自分が不幸で可哀そうだとは思っていない。誰か助けてと思わなくはないが、
なぐさめてもらいたいわけではない。ただ私はつらいんだ。

つらいと嘆くことが問題の解決に直接的につながらないことをも知っている。
ここで止まっていては、この状態は悪化していくことは想像に難くない。
対処はするつもりだ。というかし始めているつもりだ。だけど私はつらいんだ。

世間一般には、ある行為がいろいろな意味と結びついている。
Aという行為をするということは、Bという意図があると。
そういうことももちろんあるだろうが、一方でそうではないこともある。

 

やるべきことはなんとなく見えている。
だけど自己効力感がついてこない。エネルギーもスキルも足りる気がしない。
ゴールイメージも見えていない。正直うまくやれる気がしない。
ペラッペラになりながら、わたしにしては珍しく、「べき」で動いている。
でも、「べき」で動いていると消耗が激しすぎるので、落とし込んで、
「したい」に回路を変換しなければならない。
私の中に埋もれている、小さな光のような「したい」を、育てなければならない。
もとい、育てたい。

 

傷ついた分だけ、人にやさしくできるようになりたい。
経験を学びに変えたいが。
なかなかうまくはいかない。
つらいことの中身は、ちょっと生々しくて書けなかった。