(56)夜中の思考は犬に喰わせろ

こないだ実家に寄ったあと、駅までの帰り道、サンダルを脱いで、久しぶりに裸足で歩いた。
大きな月が出ていた。
雨が上がったあとでしっとりとしたざらつきを足の裏で感じ、夏の終わりと秋の始まりが混じる夜の空気に溶け込んでいきながら、
心ここにあらず。
このシチュエーションを楽しめるわたしはいない。

 

仕事をしていて、自分がだいぶネガティブになっていたり、イライラしてるのだということに気づく。
よくない。
よくないね。
そこはなんとか切り替えてやれると、思っていたのだけど、なんかもう最近だだ漏れている。
やだないやだな。

数日おきに、げっそりすることが起きる。
埃が積もっていく。

 

カサンドラ症候群の本を読んで、ネガティブなコミュニケーションが双方の引き金になってしまい、悪循環のダンス、パターンを辿るということを知り、
わかっててもやってしまいがちなことをとどめるのは、難しいけど、なんかやりようあるのかな、あるような気がする。あってほしいという願望と、区別できているのか、よくわからない。やりたいという気持ちはあり、しかし気持ちひとつは心許なく、なんかしくみを構築したい。

しばらくカフェインを控えていて、腹痛から遠ざかっていたのが、またシクシクと馴染みのあるところにいるようになってきた。

 

休日に休めないというのは、よくない兆候だというのは、わかる。
最低限活動できるだけの体力気力が戻ってくるまで、横になっているのはできる。
常にローバッテリーで、低空飛行で徘徊している感じ。

 

ネットニュースで、加害者を擁護して、被害者から叩かれるという動きを見かけた。
なんか、全部まるごと良いとか悪いとかで染め上げるスキームが、つらい。
そうなりがちだけど。認知資源の貧弱な世界にまさにいまいて、そうなると、
極端な選択肢しか取れなくて、見えなくて、現実にぴたりと合わせることができないし、
そもそも現実を見ることにコストを払えない。
多くの人が、亡霊を見ながらテンプレートを撒き散らかして、現象として土煙が立っている。

 

そういうことがしたくてみんな生きてるわけじゃないと思うんだけど、
あでも怒りを軸に生きてる人もたぶんいて、それはそれで多くのものを成しているんだろうと思うことはあるけど、
わたしは怒るのがとても苦手で、もうちょっと上手く怒りの感情と付き合えるようにならんといけないと思うけれど、
やはりわたしはそうでないストロークの中で、生きている時間を増やしたいと思う。

 

ぐるぐるしてきたので、コインランドリーに行ってくることとする。