(64)断片的なツイッタランドの奥

断片的なものを受け取ったとき、断片的な水準のままで取り扱うのか、それがつながっているであろう、自分にとって未知のかたまりについて知ろうと進んでいくのか(あるいはそもそも受け取りもしないのか)。

ツイッターには膨大な断片が洪水のように流れている。それらひとつひとつの多くは、なにかしら互いにつながっている。事件やニュースへの反応だったり、ツイート同士がリプライやリツイートでつながっていたり、アカウント同士のフォロワー・フォロイーのつながりだったり。しかし、一定線があるようなものでも、まだまだとても断片的に見える。その背景になにがあるのか、どういう意味でそういう言葉を書いているのか、よくわからないことがある、という意味で。

そんなとき、自分のそのとき持ってるものさしで処理するのと、「なんだこれ?わからないぞ?」と思いながら探っていくのでは、同じ刺激に対する反応であっても、かなり異なるベクトルを向いているように思う。一見、探っているような人でも、自分の仮説を確かめようとしていたり、自分の次の手を決める参照材料にしかしてない人は、自分の頭の中にいる。その人の経験にならない。洗練はされるかもしれないが、拡がりがない。

そこには、「わからないものを、むりやりわかる」という動きがあるように思う。でもそれは、本人としては「わからない」と思っているわけではない。その認識が誤っているわけではない。どんな場合にも大なり小なり「わからない」ものはあるので、その程度の評価と、総じて「これはわかるものか、わからないものか。」というデジタルな判断を最終的に行う際に、どんな基準やプロセスを採用するかという違いなのだ。

わからないものと、嫌いなものは、しばしばごっちゃになる。それは、わからないものが同時に嫌いなものの場合が多いからじゃないかと思う。わからないものを、むりやりわかろうとしたとき、大体はネガティブなカテゴリに入れられるんじゃないか。時々、「わからないけどポジティブ」もあるように見えるけど、それは周りに流されているときが多いような気がする。自分ひとりで判断するとき、わからないものはだめなもの、いやなものにされがちだ。

好奇心という言葉、心のうごきは、「わからない」への求心力だ。わからないものをわかりたいと思う心。そして好奇心は猫を殺す。わからないものへ向かっていくと、傷つくことがある。傷つくことが多いと言ってもいいかもしれない。だから怖い。傷つきたくない人が、わからないものを避けるのは、とっても理にかなっている。わからないは、よくも悪くもストレスだ。それをいい経験にできるには、自分にそれなりの体力がないと難しい。

ギリギリの状態で断片的なものに接すると、その背景を掘り下げることがおっくうで、断片的なままで処理してしまう。そのうちに、断片的に処理することがくせになって、元気なときでも断片的なままで処理してしまうようになってしまう。それは、必要な場合もあるけれど、大事なものを逃してしまうことにもなる。

断片的なものから、その根っこに向けて探るうごきのはなし。それは外部の刺激だけではなくて、実は自分についても言えるのだけど、またそれはあらためて。

 

(逆に、断片的なものを見ただけで、ほんとうに十全にわかってしまう人もいて、その人からすると、なんで多くの人はこんなにあからさまなものを誤解しつづけているのだろう、ここまで徹底して理解しないのは悪意か、無能によるのではないかと考えたくなり、批判したくなったり、うんざりするかもしれない。それもまた、大事な話。)