(67)人と行為と感情の親密さ
昨日の、遅くとも夕方くらいから今朝にかけて、雨が降ったらしい。
昨日の昼にたまたま外出したら、この季節にしてはびっくりするくらい暖かくて、
そして風が強く吹いていたから、これから一気に寒くなるために、
勢いをつけてるんじゃないかって、そんなことをぼんやり考えていた。
早い時間に起きて、雨がやんだらランドリーに行けるかなと思い、
でも寒そうだからまずは湯船に入ってみた。
そしたらランドリーに行く時間はなくなった。
開店した直後のドトールでモーニングを頼もうとしたら、年輩の方々で賑わっていた。
ちょっと、いいな、と思った。
行為を駆り立てているものは、いくつかの種類がある。
ひとつ、ある状態から反射的に生じるもの。
ひとつ、自分の状態に作用しようとするもの。
ひとつ、周囲に作用しようとするもの。
ひとつ、成果物を創造しようとするもの。
ほかにもあるかもしれないが、主だったものはそんな感じだろう。
自分の行為が、どういう力動で生じているか、仮説を持つこと理解すること。
他者の行為が、どういう力動で生じているか、仮説を持つこと理解すること。
自分と他者、他者と他者の行為の連鎖が、どういう力動で生じているか以下略。
目的のある行為の場合、行為によって目的が果たされたのかどうか。
意図的な行為によって、想定外の意味が生じているかどうか。
普段乗らない電車は、ちょうど通勤ラッシュで混んでいる時間帯で、
湿度も上々、空気のうすさがとびっきり。
人と状態、行為を強く結びつけて、責任と呼ぶ。
そこから切り離していくためのこころみについて。
(ちゃんと知らないけど、)受動態と能動態の間にある「中動態」という提案。
属人的を脱出して、仕組みづくりで問題を解決しようとすること。
具体と抽象のフェーダー。
ポジティブなものは生かしつつ、悪さをするものは押さえていく。
それはダブルスタンダードに、つまり、誰かの正義を侵害し、結果として、人とつながることを妨げるだろうか。
正しくありたい、の、重要な部分は、「正しく」ではない。
圧倒的に、「ありたい」が大事だ。
わかり合いたい、の、大事な部分は、「たい」だ。
自分にとって、望ましくないことは、嫌なことは、ありふれている。
望ましくないことや、嫌なことを見つけると、その出所を見つけて、
直したり、排除したり、消滅させたり、したくなる。
それは自然な、ナイーブな力動だ。
言葉や概念を扱うことに慣れている人間は、ナイーブな力動を、
さまざまな概念とくっつけたり、コーティングしたりする。
それによって、他者の理解や賛同を得やすくなったりするし、
自分の中でも附に落ちるような感覚を得られたりする。
それが持つ危険性は、しばしば見過ごされる。
ナイーブなものを叩くと、それは防御をし始める。
その過程で、歪みを持ち始めることもある。
共感と非共感を糧にして、どんどん成長していく。
そういうふうに、できている。