(147)あにばーさり

自分のほうは相手を覚えていても、相手は自分を覚えていない。そんな非対称的な関係を、なぜか心地よく感じる。負け惜しみの可能性も否定できないけど、お互いにとってよい関係性というものは、個人によって異なっているはずだという前提がある。関係性の悲劇は、自分にとってこうありたいという関係に現実がついてこないときに生じるが、その多くは、世の中のテンプレに引きずられて、ほかでもない自分と相手の間で本当に望ましい関係性を模索することや、今の関係性から湧きたつものにアンテナを向けられなくなっているところに端を発しているような気がする。

例えば、これまで誰もやったことがないことを初めてみたら、知らず知らず既存のルールに引っかかっているかもしれない。それは、制度が現実に追いついていないのかもしれないし、新しい試みが克服すべき課題なのかもしれない。

多くの典型的な人と比べて、同じ刺激に対する感じ方が異なる感覚過敏・感覚鈍麻という現象がある。距離感が近すぎると、同じ刺激が不快に感じるし、距離感が遠すぎると、意味を受け取ることができない。適切な距離感はたまたま特定の部分に集中していて、社会のデザインもそのへんに合わせられているので、意識しない人が多いけれど、重要なのはおのおのがちょうどいい距離感に調節できることだということ。

家族の関係性だって、それぞれに正解がある。一般論は容赦なく持ち込まれるし、個人と個人の間だってしょっちゅう衝突する。それでも瞬間瞬間で、これはどうしたって良い瞬間に近いないだろうという場面を幸いながら迎えることができる。そういうものを精一杯味わうこと、感謝すること、そこから学ぶことを、大切にしたいと思う。