(149)結果とプロセス(1.動機づけ)

昨日から、結果とプロセスのことを考えている。
(英語と日本語で並びが取れていないのは、自分にとってそれがしっくりくるからなのだが、同時に気持ち悪さも感じる)

 

自分以外の誰かに何かをやらせようとしたり、誰かが何かをやったその成果を欲したりするときに、強制して無理やりやらせたり、やらない場合に罰を与えたり、お金などの報酬で釣ったりすることがよく見られる。それらは、むかし教育心理学を学んだときに、「外発的動機づけ」と呼ばれていた。
外発的動機づけは、やる人とやることとの関係性の外から持ち込まれる。なんだって、無理やりやらせたり、罰を与えたり、報酬で釣ることはできる。はたから見れば、行動は生じていて、どんな動機づけだって関係ないように見えるかもしれない。
だけど、どんな動機づけで行動を起こしたかによって、本人の経験はまるっきり異なる。そして、その経験はその人の学習に影響を与え、将来的な行動に影響を与える。
外発的な動機づけは、内発的な動機づけを阻害すると言われることがある。つまり、強制したり、罰を与えたり、報酬で釣って何かをやらせていると、それ自体の面白さに魅力を感じたり、その行動が自分にとってどう役立つのかを考えたりを、しにくくなるんじゃないかという考えだ。もしそうだとすると、外発的な動機づけが働かないところでは、かえってその行動は生じにくくなる。
現実的には、そういうこともあるし、でも一方で、外発的な動機づけがきっかけとなって、その人がその行動を深く味わい理解して、内発的な動機づけが生まれることだってある、と思う。そしてそれを知ってか知らずか、外発的な動機づけは世の中にあふれている。学校では宿題が出されるし、大人だって刑罰という外発的な動機づけで悪いことをしないように方向づけられている。公的な機関の給付金はお金で釣っている以外の何物でもない。

 

大事なのは、どっちなのか、だ。
外発的な動機づけが、内発的な動機づけを殺しているのか、それともそれなりに内発的な動機づけを育てるきっかけになっているのか。内発的な動機づけなんてどうでもよくって、ずっと外発的動機づけに浸しておけばいいという考えもあるけれど、その世界はなんだか楽しくなさそうだ。
外からすると、外発的動機づけを与える方法が、コントロールしやすくて、即効性があって、よい方法に思えるかもしれない。だけど、そのとき内発的動機づけに何が起きているのか、もしそれが内発的動機づけを殺しているのであれば、もしかするとあまり良い方法ではないので、改善案を考えるか、せめて限定的にするようにしたほうがいいかもしれない。
仕事の場面で、結果を求めて強引に進めてしまうことがよくあるので、よくあるので、自戒を込めてみる。あと、いま、河野大臣というえらい人が強力なリーダーシップを発揮して、押印が必要な手続きをなくそうとしていることや、それと全然別に、法律で障害者の雇用を義務づけていることが、どんな影響をもたらすのか、もたらしているのかが、ちょっと気になっている。