(150)結果とプロセス(2.自分視点と他人視点)

10日前くらいに、ひとつ前の記事を書いたとき、今年のうちに何個記事を書けるかということを考えていた。件名の頭についている数字は、下2桁が今年に入ってから何番目の記事かを表していて、たとえばこの記事は50個目になる。もしそこから毎日更新したら、90の大台に行くかなと思っていたら、何も書かずに10日くらい経ってしまった。80の大台だったら行けるかなと、これから毎日更新してみようかなと思っている。師匠も走るともっぱらの噂、走りながらでもつぶやいてみようと思う。毎朝記事を書くための時間を定期的に作れるといい。そのために、朝は早く起きられるといい。

 

10日前、結果とプロセスのことを考えていた。まずは動機づけのことを書きたいなと思って、珍しく人に説明するような文章を書いた。その次に書きたかったことを思い出そうとする。主観と客観、言い換えると、自分視点と他人視点。

すごくひさしぶりに、演劇の稽古というものに参加させてもらっている。このご時世なので、オンラインで稽古をしている。稽古の様子は録画されていて、あるシーンのやりとりも、そのあとそのやりとりについて話したやりとりも、あとから見返すことができる。役者というかかわり方をする自分にとって、演劇は自分が演じるものだが、同時に他人が観るものだということ。演出家や共演者のフィードバックを聞くことで、自分で自分の演技を映像で観ることで、「他人が観る」をすこしだけ追いかける。

同じ現象にも関わらず、演じた自分の経験と、観た他人の経験は、異なる。同じ場にいても、同じものを感じるわけではない。それは演劇に限らないのだけど、少なくとも演劇、演劇の稽古では象徴的にそれが起こっている。本番に向けて変化していくために、稽古場面で何が起きているのかを突き詰めて考える。自分では共演者と楽しく会話できたと思っても、他人から見たら攻撃的にあざけっているように見える。でも別の人から見たら仲よさそうに見える。なにか関数があるんじゃないか。その関数の中身をちょっとだけでもスケルトンにしたいと思う。一回性のものは流れてしまって、ぼんやりとした感覚だけが残る。言葉が残っていると、だいぶ引っかかりを残せる。残した言葉をとっかかりに、何度も反すうして、油絵の色を重ねるように、経験を消化していく。そういうことができる場合もある。流れてしまいがちなものを、録画して観直して、積み重ねていく。そういうことをしている。

自分の立ち居振る舞いが、他人からどう見えるか。他人にどんな印象を与えるか。その後の他人のリアクションとどうつながっているか。人というものはたいてい、自分が他人に与える影響や、他人が取るであろう反応を予想しながら動くものだが、私の場合、そのシミュレーションはすごく限定的で、主に認知面、どう理解するかどうかということばかりで、どう感じるかということが抜け落ちてしまいがち。感情面も取り扱うことはできなくはないが、すごく荒かったり、よく予想が外れたり、まったく予想がつかないきもちで途方に暮れたりする。

自分がそれをする能力は、どれほどなのか。平均してどれほどのパフォーマンスが出せて、どれくらい環境の影響を受けて、どれくらいムラがあるのか。どんな環境だとうまくいって、どんな環境だとぐちゃぐちゃになるのか。伸びしろはどれだけあって、どんなサポートを受けることが大事で、どんなことをあきらめる必要があるのか。そういうことをひとつずつ明らかにしていくこと。自分を知っていくこと。自分を取り扱っていくこと。生きていくこと。