(219)時間割~自分の経験を取り扱う

ぽっと浮かんだことを話すのは、SNSの普及を見るに、少なからずの人がそんなに苦労せずできることなのだろう。

ただ、それも内容によると思っている。私は小さいときから感想文という課題に激しく嫌悪を抱いていた。たぶん、非言語と言語の接続も、自分で感じたこととそれを人に伝えることとの接続も、うまくできなかったんだろう。何かを学ぶときなんて、できないのが当たり前なのだから、へたなりにやっているうちに、だんだんとできるようになっていくもんなんだろうが、私はそのとっかかりでつまづいてしまった。作文というものには縁のない人生だと思っていたら、一度、創作の物語を書くような課題で、どんどん楽しくて書き続けて、今度は終えることができなかったかすかな記憶がある。昔のことはほとんど覚えていないのだが、そんなことがあったのは確かに覚えている。

思春期になったって、大人になったって、言葉にならないものなんていくらでもある。自分のことだけでなく、他人にも同様に言葉にならない世界があるんだということを、多くの人は学びながら、うまい付き合い方を学んでいく。だけど私は、言葉にならない世界へのアクセスを、非言語的な手がかりによることではなく、論理的な推論に頼ることをどうやらしてきたらしい。それは自分なりの補償手段だったのだろうけど、そういうことをしていると、非言語的な手がかりを使うことはどんどんできなくなる。苦手なものに挑戦するかどうか、伸びしろがあるかどうかというのは難しくて、少なくとも苦い体験に浸るのは間違いないので、どうやって逃げずにいるかがポイントとなる。

泡のように浮かんだものは、泡のように消えてしまう。泡のままにせずに取り扱ってやると、そのあとも心にとどめやすくなったりする。生きていて、とてもよいことを思いついたり、人の話の中でとても素敵な言い回しに出会ったり、散歩道でときめく瞬間、漫画や映画などの作品を味わって余韻に浸ることがある。確かにそのときは自分の心の中にあったはずのそれらは、でも放っておくと、いつの間にかするりと抜けてしまっている。どうやったらそれらを抱えていられるか、あるいは思い出すことができるのか。そのために、経験を振り返り、処理することが重要なんじゃないかと思いはじめた。自分が感じたのはどんなことか。ほかにも感じたことはなかったか。なぜそのように感じたのか。なにか学びはあっただろうか。このあとどんな経験を積み重ねると、もっと面白いことになるだろうか。

それらは自分の経験を取り扱うこと、自分の経験を外に開くための第一歩だ。できるようになりたいこと、なっていきたいこと。自分の時間割の1時間目は、経験を取り扱うこと。

1月がもう終わりつつあってびびる。