(233)反応が遅いわたし

松屋で復刻したシュクメルリ定食に手を出したり、家族とテレビ電話のアポを取ったり、雨が降ってるので買ったばかりの靴下を履くのをやめたり、週1の外周が順調に続けられている反面、昨年風呂上がりに習慣化しつつあったストレッチがご無沙汰になりつつある。同じくご無沙汰だった自炊を復活させようと、先週買った「はやねはやおき四回食」を意識してたら食べすぎてしまうことしばしば。

よくわからないものに接し続けているうちに、嬉しいものも嫌なものもひっくるめて、離れざるを得ないようなことにならない範囲で、接し続けることを続けていると、じんわりと理解の泡が浮かび上がってくる。それは仕事のこともそうだし、自分のこともそう。街のことも。電車の駅として、頭の中でとびとびになっている駅名地名が、こっちにこれだけこの道を行けばつながっているんだとわかったとき、一度わかったと思ってもそれが違っていて、ちょっと混乱して、よーしちょっと落ち着いて考えてみよう、と、自分の誤解の核となっている思い込みや勘違いがどこかにあるんじゃないかと走査する。それが見つかると、喉に刺さった小骨が取れたように爽快で、視界が開けた気分になる。

久しぶりに夜更かしをして、終わらない仕事を少しだけ進める。大変な官僚たちがにわかに取り上げられて、その文脈で働き方改革が取り上げられていることに、複雑な思いがわいてくる。それは真実の一片だけど、すべてがそうなわけじゃない。理解は誤解の種になる。でもそういうのも含めて一連の現象なんだよなあ。どこまでコントロールしようとするか。どこまで成り行きに任せるか。