(246)AとBと幸せ

ついこないだ、オンラインの場で資本主義のことが取り上げられた流れで、引き続きそのようなことが頭を反すうする。パターン・ランゲージのクリストファー・アレグザンダーがどこかに書いていたのをどこかで又聞きしたのだが、世の中のAというシステムと、それと異なるBというシステムがあった場合に、Aの支配する世界でBの価値観を大切にしようと思ったとき、必ずしもAにとってかわる必要はなくて、Aというシステムの中でBが機能することもできるという、ひとつのイメージがある。ウィンドウズの中でマックを起動するような、殴り合いが禁止されている社会でもリングの上は別みたいな、ハレとケというか、今夜は無礼講みたいな、アクセルとブレーキまではいかないけど、スイカに塩はちょっと違うか、S極とN極とか、昼と夜?まあとにかく、相反するものが共存することは案外可能で、そしてそれゆえの面白さってものがある気がしている。その登場人物を2要素でなくて、多要素に広げていったのが、いわゆるダイバーシティというやつなんだろうか。

つながっているようなつながっていないような話。資本主義は生産性を追求するらしい。そのへんからしてまだ私はしっくりきていなくて、学校で社会の勉強をもっとやっておけばよかったと思ったりしそうでしない。学校に通うのはなんのためだろうかと思うと、カリキュラムを身に付け、身に付け続けることなのだとしたら、私は卒業時点で半分以上失敗しているし、現時点では9割以上記憶にない。お金がないと幸せになれない世界、お金を稼ぐには身を粉にして働かなければならない世界、お金を稼いでいるはずなのに、幸せになれない世界。あれあれ。お金がないと幸せになれないのは、個人の問題なのか、社会の問題なのか。要素としては両方なんだけど、問題というとちょっと余計な意味が加わってしまうからやめよう。属性によって幸せになれるかどうかが絶対的に左右されてしまう世界。女か男か、白人かアジア人か、貴族か庶民か、五体満足かそうでないか、イケメンかブサイクか、金持ちか貧乏か。金持ちってのは、属性なのか。ある人にとっては、属性に思える。金持ちは教育に金をかけて、さらに金持ちになるから、固定化・再生産されていく。努力で変えられないから、属性。ある枠の中では、それは正しいように思える。幸せという言葉を言い換えると、選択肢が確保されているかどうか。自分が選びたい選択肢が、自分には与えられていなくって、でも隣の人には与えられているときの気持ち、そして可能性のふさがり。そうではなくて、自分がそのときこうしたいと思ったことを選択し、その結果がどうあれ、自分で自分の人生を選択したと思える人生を生きる。それが幸せかというと、それは確かに重要だけど、それだけではないような気もする。すべてを自分で選んでいては、脳がいくつあっても足りない。考え事をしていても足は駅まで運んでくれるし、お弁当屋さんのラインナップが何であっても、多少胃がもたれるくらいで大差ない。すると、個人内にこだわりのあるなしに差があって、こだわりのあるところで選択できること、希望を通すことが重要なんだろうか。こだわりがあるということは幸せなのか、幸せの種なのか。とりあえずこのくらいにしておこう。理想に向けて、環境を変えるアクションをする話も気になっている。

昼間にやった、働き方について考える研修は、これはもう恥ずかしくなる感じだったのだけど、どんなに失敗だと思える体験であっても、心持ちひとつで糧にできるという根拠のない信念がある。