(252)反復と経験とついていく

一度だけだったらうまくできることも、何度も続けてやると失敗するかもしれない。毎日続けていると、だんだんしんどくなってくるかもしれない。働くことだって、それ以外のことだって、そう。しんどくなってきたときに、頻度を減らしたり、内容を間引いたり、あるいは一度お休みにしてみたりする。それと併せて、ちょっとやってきたことをふりかえってみたりする。続けようと一生懸命になっているまっさなかでは、ふりかえるだけの余裕が取れないかもしれない。過去の経験に意識を、注意を向けることで、新たな気づきや意味が生まれるかもしれない。今から過去に向けたベクトル。経験は同じでも、振り返ることで意味が増える。それはまるで食材が熟成するかのようだ。一方で過去の経験が否が応にも思い出されて、ネガティブな感情が繰り返し生じ、答えの出ない考えがぐるぐるとめぐり、消耗してしまうこともあるかもしれない。経験はよくも悪くも、そして意識的にも無意識的にも今に影響を与える。過去から今に向けたベクトル。経験している今から見て、将来によい影響を及ぼそうとするのが、教育だったり、学びだったり、訓練だったりする。今から未来に向けたベクトル。

子の意思を尊重するということは、簡単なようでけっこう難しい。子が「こうしたい」と言ったことに文字どおり応じることが、子の意思を尊重することになるのかどうか。常に、言葉の背景になにがあるかを気にしようとしている。これはあまりわからないが、ときどき垣間見えることもある。あと、叶えてあげられないときに、気持ちを受け取ったことを伝える。よくないと思って制限する場合含め、なぜ叶えられないのかを理解できるように説明するようにしている。自己満足かもしれないし、理屈っぽい水路づけをしてしまっているかもしれない。あとはどんなすっとんきょうなことを言っても、とりあえず拾おうとしてみる。難しいのは、自分で言ったことを撤回する場合。「本当にこれでいいんだね?」と念押しすることはしてしまっている。最悪、なにかをしたときに、気持ちがなくなってしまっていてもいいのかもしれないとも思う。自分で意思決定したことと気持ちが乖離する経験が、なんらかの学びになったらいいなと思うが、それはちょっと雑にぶん投げすぎだろうか。