(253)トイボックス

「問いのデザイン」という本を手に取る。最後までは読んでいなかった本。開いてみると、途中くらいまで書き込みがある。あれ、こんなに読んだんだっけ。全然覚えてない。忘れてしまっているのか。ガーン。1月の頭に2回くらい読んでいたらしい。とりあえず序章と1章を読み直してみた。

 

○ ある、うれしくないことについて。認識は意識・無意識を通じて変化することもあるが、形成された認識が無意識化=自動化されたとき、よい面とわるい面がある。よい面は、処理速度が上がること。意識リソースを使わなくても、あるインプットに対し、その認識で処理をして、アウトプットを出せる。そのアウトプットが、その環境の中で役立つうちは、よい面が優位となり、全体としてその認識はよいものとされるだろう。一方、わるい面は、無意識化=自動化された認識は、アーカイブされたもののように、変更を加えるのが難しくなること。それにより、学び=認識の変化の機会があっても、スルーしてしまうこと。そして、もはや環境に合っていない認識を持ち続けてしまうこと。
○ 個人の中で形成されるものが認識なら、その一部であり、人と人との間に形成されるものが関係性であるといえる。人と人とはさまざまな形でコミュニケーションを取るが、お互いの相手に対する認識=関係性によって、コミュニケーションのバリエーションは規定される。なんでも話せる関係性というのもあるかもしれないが、大体の場合はそうではない。なんでも話せるのがよいこととも限らない。関係性を変えようとするコミュニケーションを取ることもできるが、そうでない場合もある。関係性が固定化することで、コミュニケーションが固定化し、それがまた関係性を固定化する。相手があるので、こちらは関係性を変化させたくても、相手がそうでない場合は固定化するかもしれない。個人の認識と比べて、意識していてもなお固定化することもある。関係性の固定化にもよい面とわるい面がある。よい面は、見通しが立つことと、その関係性からもたらされるものが安定して供給されること。それが両方にとってよいものであれば、その関係性はよいものだろう。一方、わるい面は、どちらかにとってその関係性からもたらされるものが負担となっているにも関わらず、それが続いてしまうこと。限界を超えると、破壊的な方法で関係性を変えざるを得ないかもしれない。一時的には双方ダメージを負うが、ずっと固定化された関係性で消耗するよりはましだと思うかもしれない。それから、お互いの相手に対する認識が不十分な状態で、たとえば誤解したまま、それが固定化されてしまっていることもある。誤解に基づくコミュニケーションを取られて、不快に思うかもしれないが、もはや関係性が固定化されていると、それが繰り返されてしまう。なにが十分かというのも程度問題ではある。

○ 問いによって、固定化した認識、固定化した関係性に変化を起こすことができるらしい。さらに、ワークショップという場の中で、ワークショップ・ファシリテーターが問いをうまく使うことで、参加者の固定化した認識、固定化した関係性に変化を起こすことができるらしい。問いという言語にしてコミュニケーションのツール、ワークショップという認識とコミュニケーションの場、ファシリテーターという支援者及びその資質について言及している。この本は、問いをうまく使うために、問いをデザインすることについて書いてあるらしい。こうすればうまくいくというものは示せないが、こう考えたらうまくいくのではないかというものは示せるらしい。
○ 問いとは何か。形式的な定義は一瞬で終わるが、そこはそんなに大事ではない。問いを投げかけることで、投げかけられた側に何が生じるのかという、問いがもつ機能のほうが大事なことだ。問いは、投げかけられた側に答えを意識させる。答えは一瞬で思い浮かぶかもしれないし、いくつも同時に思い浮かぶかもしれないし、何も思い浮かばないかもしれない。速さはどうあれ、答えに向けて人の意識を方向づける力をもつ。場合によっては、それを暴力的に感じる場合もある。論点提示も人の意識を方向づけるが、単なるキーワードであれば、問いよりは方向が限定されないかもしれない(キーワード<オープンクエスチョン<クローズドクエスチョン)。問いを投げかけられると、答えに至らなくても、思考や感情が浮かびあがることがある。それは答えに至るプロセスかもしれず、答えに向かいつつも至らないかもしれず、答えとは関係ないかもしれない。問いが求める答えは、客観的な事実のこともあるが、投げかけられた側の認識であることもある。その認識が意識されていれば、すぐに頭に思い浮かぶだろうが、無意識にあるものだった場合、答えを出そうとすると、その人は自分の無意識を探り、意識化しようという作業をすることになる。それは内省と呼ばれる行為に似ている。

○ 問いの機能のつづき。問いに対する答えを人が言葉にするとき、あるいは問いに対して思い浮かんだこと(問いへの向き合い、と呼んでみよう)を人が言葉にするとき、その場にいる他人がそれを聞いたり読んだりすることができる。それはコミュニケーションとなる。誰かの問いへの向き合いを受け取って、さらに思い浮かぶことが生じるかもしれず、もしそれを言葉にしたなら、それはさらなるコミュニケーションとなる。そのバリエーションとして、新たな問いが思い浮かぶかもしれない。問いから生まれるコミュニケーションは4種類に分類することができて、固定化された認識や価値観に変化をもたらすのは「対話」と呼ばれるものらしい。おそらくどんな問いでも対話が生じるのではなく、対話が生じやすい問いがあるのだろう。人の内面に関する問いを投げかけられることで、認識に変化が生じる。思い浮かんだことをお互いに言葉にすることで、固定化された関係性からは生じにくかったコミュニケーションが生じ、それによって関係性に変化が生じる。ほんとかな。問いを発端として、人は内省し、他者を理解する。私はこういう認識を持っていて、あの人はああいう認識を持っている。それはきっとある程度共通していて、ある程度似ていて、ある程度違っている。そのあとで、共通認識とか、共通の意味を見つけるというところがいまいちピンとこない。単に相互理解が深まることによる関係性の変化ではないのだろう。具体と抽象を行き来することが、どうして重要なのだろう。
○ 共通理解や共通の意味とは何か。問いへの答えに対し、なぜ、なぜ、なぜ、と掘り下げていくと、抽象的な意味づけが明らかになっていくことがある。すると、異なっていたもの同士に、抽象的な意味では共通するところが見つかるのかもしれない。AさんもBさんも「幸せになりたい」という点は共通しているが、Aさんが幸せに感じることとBさんが幸せに感じることは異なっていて、それにはこういう背景の違いが影響していて、みたいなやつ?それを見つけることにどんな価値があるのか。共感できなかったものに、部分的にでも共感できることか。そして、人と人との関係性に加えて、集団の関係性みたいなものも存在するんだろうか。集団に所属するメンバーが、その集団について持っている認識や、その認識に基づき生じる言動の総体が集団の関係性なのだろうか。うちの職場はこれこれだ、あの勉強会はこれこれだ、だから私はこうふるまう、みたいな?そこに共通認識の話を持ち込むと、メンバー同士で共通の認識を持っている状態になるということ。社会構成主義という認識論で社会的に構成されたものと捉えるということを持ち出したのは、それが無理やり押し付けられたものではなく、対話のプロセスを経て=腹落ち感を伴って生じているかどうかが重要ということなんだろうか。

○ 内省を促す問いと、アイデア・発想が出るような問いはだいぶ異なるように思う。しかし、ダイレクトに内面についての問いでなくても、固定化された認識がアイデア・発想を貧弱にさせているのであれば、問いによってそれをこじ開けることができるのかもしれない。それは、内省というよりはもっと強力に、場合によってはその人の元々の認識を意識化させないまま、いつの間にかずらしたり、変化させたりしているのかもしれない。それも、脱固定化という意味では価値のあるものなのだろうか。内省を経由しない認識の変化は、ちょっと危ないやつにも似ている気がする。アイデア・発想が出ることは、そのアウトプットに着目しているのか、そのプロセスで生じる認識・関係性の変化に着目しているのか。どっちともありそうな気がしている。