(259)音楽のある部屋

1か月前に借りたCreepy Nutsのミニアルバムをようやくちゃんと聴いてみた。歌と解説が交互にトラックに入っている。歌の前に、どういう歌なのかの解説が入る。ライナーノーツのようだ。私は歌が歌だけだと、消化不良になることが多い。歌詞だけ読んでも、どういうことだろう?と思ったりして、なかなかつながる感覚を持てないことが多い。同じ歌を聞いても、歌詞を読んでも、もっとたくさん受け取れて、つながれる人はきっといるんだろう。それはほとんどの人がそうなのかもしれない。

演劇の演目について、当日パンフレットであーだこーだ書くことを粋ではないと捉える考え方がある。作品は作品だけで勝負すべきなのであると。作り手としては、それが誠実な態度なのかもしれない。パターン・ランゲージの論文を改善するためのライターズ・ワークショップでは「フライ・オン・ザ・ウォール(壁に止まったハエ)」というルールがあって、自分が書いた論文について補足説明をしてはならないことになっている。伝えたいことがあるならすべて論文の中に込めるべきであって、誤読されるのであれば、論文の内容に至らないところがあったのだと考える。それもわかる。

しかし、受け手としては、足りなかったらもう少してがかりが欲しいと思ってしまう。ヒントをちょうだい。味が薄いと思ったらしょうゆをかける。あるいは、絵画鑑賞や古典芸能などは、予備知識があることで十全に楽しめるという要素があるらしい(よく知らないが)。いずれにせよ、受け取りにくい私にとって、一曲ごとの解説はとても優しかった。

それはともかく、Creepy Nutsは声が好きだ。学生のとき、Rip SlymeKick The Can Crewが好きだったし、あまり重くないヒップホップというジャンルも好きなんだろう。ほかのアルバムも聴いてみたい。こういう心躍るものを見つけられるのはとてもいいことだ。

あっという間に過ぎ去った、激動の2月が終わる。何も予定のない中で、漠然とやってみたいことを中心に据えてはみたけれど、まんじりとして、結局ほとんど進まなかった。だけど、実際に手が動かずとも、心を向けるということには意味があると思っている。カチカチの氷の表面が溶け出すように、次につながっている手ごたえはある。ただ、世の中には時間ぎれというものがある。すべてが精神と時の部屋にあるわけではない。リソースは有限だし、元には戻らないものもある。それをかみしめながら、風呂場にカビキラーを噴射して、ラップの切り身を貼り付ける。