(269)幸福論

先々週と先週に行きそびれた飛鳥山公園に足を伸ばしてみた。小学校のとき、都電荒川線のスタンプラリーを何度かやったときに名前だけは覚えていたけれど、そのときは中身をあまり気にしていなかった。飛鳥山といっても山が見当たらない。

はじめは、ナントカ庭園みたいな、大人向けのあっさりした公園かと思ったが、謎のロープウェイ(稼働してるんだろうか?)があったり、お城みたいな遊具のコーナーがあったりと、ただ広いだけじゃないクオリティを目の当たりにした。北区すげえ。その近くの西ヶ原公園も、規模はそこまでではないものの、隣接した建物と階段でつながっていて、桜の木を高低差のある景色から楽しむことができる。

前の日のエントリにも書いたが、資本主義のことを考えている。なんとなく、「お金がないと幸せになれない世の中」を作っている犯人的な言われ方をしている気がするが、この公園なんて、北区民ではない私でも無料で楽しむことができる。公共交通機関を使ってもいいけれど、うちからだったら自転車で行けば交通費もかからない。近所の図書館は、今はよくわからないけど、以前は毎週新しい本が入荷していたり、CDもポップスが充実していて、すごく文化的に豊かさをもたらしてくれる。歩いて行けるところにツタヤがあると、たった100円で古い映像作品が見られるし、セール期間にはCDも100円くらいで借りられる。図書館にない最新のマンガも貸し出している。最後のは有料とはいえ、得られるリターンからすれば、だいぶコストは安いように思う。(ツタヤで学習DVDとか貸し出したりしてないんだろうか。それはむしろ図書館の役目か?)

そんなわけで、お金をかけずに人生を楽しむのは、わりとスキルな気がしている。だから、「お金がないと幸せになれない」というのは、そういう趣味的なことというよりは、家賃とか食費とか光熱費とか、教育にかける費用みたいなことを言っているのかもしれない。世の中の人は、何が満たされると幸せで、何が満たされないと不幸せなのだろう。健康か病気かで、幸せかどうかはどれだけ決定づけられるんだろう。親密な関係のパートナーがいるかどうか、仕事があるかどうかはどうだろう。そんなことを考えていると、大山泰弘の名言を思い出す。

私にとって幸せの要件とはなんなんだろう。私は幸せなんだろうか?よくわからんけれど、飛鳥山公園を散歩していたときは間違いなく幸せだった。