(302)勝手にメイキング

1か月以上、めっきりブログを書かなくなった。
その原因を、私なりにこう自覚している。

私のリソースはとても限られていて、しかも、完全に自律的に使えるリソースは、さらに限られている。(仕事とか、体力回復のための睡眠・入浴・摂食について、相当程度に自由にやらせてもらっているが、それでも私にとっては明確に区別される)

気が向いたときだけ書くようなものではなく、100日間毎日ブログを書くということは、私が完全自律的に使えるリソースのかなりの部分を使用する。逆に言うと、それ以外のことがほとんどできないと言ってもいいくらいだ。なんちゃって毎日更新でもそれだけリソースを使用するのは、私の燃費の悪さによるものが大きいけれど、それだけのリソースを投入してでもやってみたいことではあった。一方でちょっと苦しくなってきたところもなくもなかったこともあり、100日という区切りはちょうどいいかなと思っていた。

4/20に最後に連続更新を止めた私がいまリソースをぶっこんでいるものがある。分量は大したことないが、けっこうな時間を使って、なぞの作文を書いている。それは、このブログではなく、実名でアカウント登録を行う某SNSに投稿している。ここに投稿してもよかったのだが、なんとなく、そっちのほうが良いような感覚があり、理由をはっきりと言語化できないままにこれまで3回に分けて投稿している。1度目は14人が「いいね」をつけてくれたが、2回目・3回目はめっきり反応がなくなった。それでも少ない人がいいねをつけてくれて嬉しくなり、私にもいっぱしの承認欲求があることを実感する。

このブログは、私にとって一番プリミティブな表現媒体になっている。ここ以外に、いくつかのSNSその他投稿サービスを使っているが、どちらかというとそれらは他人のコンテンツを見るほうが主目的になっている。そこで発信をすることもたまにはあるが、極めて限定的な内容になっている。そんな、勝手に決めた役割分担のもと、進行中のアウトプットは某SNSに書き、ここではそのメイキング的なものを書くという、誰得なことをしてみている。

そこで書こうとしていることは、私というフィルターを通して、世の中がどう見えているかということに関している。「社会」というものがよくわからなくて、これまでずっとほとんど無視して生きてきたのだけど、無視して自分の主観世界では存在しないことにしたとしても、どうやら社会は容赦なく私に影響を与えてくるし、自覚をしないことで抵抗もできずに振り回されるがままになっているのではないかと思うようになってきた。私が私の生きたい人生を考えたとき、だいぶ人よりは遅いタイミングにはなってしまったけれど、社会というものを知り、私と社会の関係を知り、私と社会の関係を調整する方法を知りたいと思った。作文はその試みの端緒だ。

別の観点からこの作文の持つ意味を表そうとすると、私が見聞きしてきた断片的な学びを咀嚼し、紡ぎ合わせてひとつの大きな学びを生み出そうという試みともいえる。ここ1年のコロナの影響でオンライン会合が普及し、勉強会的な集まりへのハードルが下がったこと、今年に入ってから人生の重大案件に一区切りがつき、精神的にリソースが解放されたことなどの影響で、さまざまなコミュニティに参加し、新しい人と出会ったり、様々なことを見聞きしてきている。その時その時に考えたり、反応したりはしているけれど、どうもそれだけだとその場限りになってしまっていて、学びのインパクトはいまいち、時間が経つと忘れてさってしまうことが大半だ。だけど、その経験を再び拾い上げ、他の似た経験と比較したり、疑問が残る点を追加で調べたりすることで、自分にとってインパクトのある学びに近づけるような気がしている。

ほかにもあるかもしれないが、私にとって「社会との関わり方を考える」「学びのパッチワークを作る」という意味で、すごく重要な試みとなっている。仕事や生活が爆発すると、こういう完全自律的な活動にリソースを割くことがほとんどできない状態が何か月も続くので、こういうことができていること自体を幸せに思う。ただ、そこで満足せずに、なんらか到達したいものだ。

画像は、作文をパラグラフごとに印刷して名刺サイズのカードに張り付けたもの。

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