よなよな

ものを考えたり、複数の人で話したりするとき、「何について話すのか」と同じくらい大切なのが、「どの水準で話すのか」だと思っている。そのため、いま自分たちが何について話しているのかを自覚するのと同じくらい、自分たちはこれについてどの水準で話しているのかを自覚するのは大切で、でも後者は前者より難易度が高いんじゃないかと思っていて、だから、より注意して、それができるようになりたい。

カーンアカデミーの設立者、サルマン・カーンのプレゼン動画を見て、イベントを設計するとき、何を事前に配置して、何を当日に配置するのか、という視点について気になっている。ひっくり返された教室は、それ以前のものと何が異なっているのか。あと、職場の大きな会議は、事前に参加者に資料を配って読んでおいてもらったり、事前に説明をして問題意識を聞き取ったりする。わざわざコストをかけて、それを当日でなく事前にやること。それらは繋がっているように思える。

子どもの貧困とか、若者の労働問題といった社会問題を考えるとき、その背景となっている考えがちらほらと見え隠れする。似たようなことはきっと個人的に一度は考えたことのある概念なんだろうが、それらは精緻性だとか中心だとか、色々な点で大なり小なり違っているだろうから、突き合わせることには意味がある。たとえば、その問題を経済合理性で説明することもできる。だけどおそらく歴史的には、それより先に、人権といった切り口で語られる方が、多いのではないか。

人権。権利ってものには、義務とセットになった条件つきの権利と、ある前提を満たしていれば特段の義務を求められない無条件の権利があるような気がしている。たとえば人権というのは、人間であれば等しく与えられる(べきと考えられる)権利のことを指すと思うが、人間であることを義務と呼べるかといったら、それはあまり一般的でないように思う。俺は人間をやめるぞ!ジョジョーッ!!みたいな。

この、権利の中身について、機会を保証する類の権利と、結果、というか、状態を保証する類の権利がある、つまりさらに細かく2つに分けられるような気がしている。細かく分けると言いながら、中身の話には全然入っていってない。もう少し手を伸ばすと、憲法とか日本国憲法とかの条文に繋がっていくのだろうか。憲法と法律以下との関係とか違いは、昔クニミツの政っていう漫画参考書で読んだんだけど、ほとんど忘れてしまった。

実際に対策を打っていく上で、その目標となるのが、人権に関わるような気がしている。そして方法を考えるときには、個別具体的な状況のほか、人間というものがどういう仕組みで動いているのかということ、これはある程度は心理学が説明しているけれど、それとあと、経済というか社会がどのようなしくみで動いているのかを理解していくといいんじゃないか。加えて、わかっているだけでは物事は進まないので、行動に移すこと。聞き取ったり、言葉にしたり、行動にしたりすること。単発でなくて、積み上げていくこと。持続すること。

話はちょっと戻って、人権の前提となっている、「人間である」ということについても、自明なようできっと自明でないんだろうなと思う。歴史的経緯はふわっと聞いたレベルでしか知らないが、ある人種は人間とするが別の人種は人間ではないとか、女性は人間ではないとか、子どもは人間ではないとか、健康でなければ人間ではないとか、そういった切り分け方は、消滅してきたとはいえ存在してきたし、そして僕らが生きる現代にも巧妙な形で存在しているのだろうと思う。だからその基準はDNAとか、まあなんでもいいんだけど、明確で客観的な真理に則ってるわけではなくて、だからそこにはある種の価値観が反映されている。

たぶん、このくらいのことは、既にどこぞの領域では語り尽くされていて、この先の展開も先人が辿った道なのだろう。重要なのは、その領域と繋がること。ぼくはこのブログに書き殴った考えの切れっぱしを、参考書を読み込んだり、人に話して指摘してもらったりしながら、深めていかなければならない。

ならない、というのはこれもまったくおかしな言葉遣いで、こないだ人に指摘されたばかりだけど、別に誰かに強いられていることはまったくない。だけどもその方向に対して自分が惹き付けられる力動の強さは、深めていきたい、という言葉では拾えてない、しっくりこない気がして、あえてそんな言葉を使いたくなる。それは自分のフェルトセンスの問題なので、他人と共有するために言葉を使うときは、もう少し慎重になった方がいい。

脈絡もなく長くなった。わたしは、もやもやしているときはとりあえず書いてみることにしている。始まりの町。