(412)白と黒

睡眠をしっかり6時間取ろう?と思った翌日に、深夜2時前までの作業が発生する。
仕事でないからまあいいが、仕事だったら相当にストレスだろうな。
世の、深夜2時まで仕事が発生する人たちは、どうやってバランスを取っているんだろう。
仕事のやりがいがすごいとか、お金がたくさんもらえるとか、そのあと飲みに行って盛り上がるとか、そんなことが可能性として思いつく。

 

結局、シャワーを浴びて、簡単にストレッチをしてから6時間睡眠を取り、8過ぎに起きてから少し家事をこなして出勤した。
6時台とかに目が覚めてしまうが、そこでスマホ的なものを見たりせずに、もう一度布団に潜り込むのがポイント。

生活をデザインしていく。

(411)時間のパッチ

睡眠の質や量が足りていなくて、日中に集中力を切れることが目立つ。
その対策として、当たり前すぎる話ではあるんだけど、夜1時までには柔軟まで終えて寝るようにして、6時間睡眠を取って7時以降に起きるようにすると、7時台に家事や朝食を済ませ、8時台にその他ちょっとした用事をすることができるのではないかと、昨晩からやってみている。

(410)計画的な時間

また、前に記事を書いてからだいぶ経ってしまった。
こりずにまた書き始めようと思う。
1つずつ、ときには2つくらい。リトルテップ。

 

最近引っ越したところには、たくさんの住人が住んでいる。それらの住人たちと挨拶をしたり、雑談したり、ときには一緒に活動をする。いろんな活動をする。
そんなに親しくない同士で話していると、お互いに自分の話をする。そこには昔自分が聞いたことや経験したことも含まれていて、話しながら、そういえばこんなこともあったなと思い出すことがある。昔傾倒していて、今でも自分の深いところを占めているパターン・ランゲージの、特に企画に関するプロジェクト・デザイン・パターン(PDP)の話になって、久しぶりに読んでみた。すると、以前は抽象的でとっつきにくかったこの本が、するりと数時間で頭の中に入ってきた。

そこで得たヒントを手がかりにして、ときどきやっている、自分の関心事項を真っ白な紙にひたすら書き出すというワークをやってみた。PDPのパターンの1つである、「徹底リスト」に似ていると思った。PDPでは、洗い出したあとに「考えるための点数化」パターンが書いてあったが、そこの部分が足りてないなと思った。そのまま点数化を行うのはちょっとハードルが高かったので、リソースの配分の観点から、24時間×7日の約160時間のうち、平日と週末にどんなことにどれだけ時間を使うかの計画を立ててみた。計画は想像を産み、実際に体験したときの意味合いに奥行きを出してくれる。「予想とのギャップ」パターンとも通ずる。

この撒いた種を、次の週末に確認してみようと思っている。

(409)春の出入り

あっという間に、1か月が経っていた。

引っ越した先での新しい生活環境に慣れていって、段々と周りの人と面識ができていって、かわるがわる様々な活動が動き始めている。強烈な光の合間合間に、ちらほらと見え隠れする陰も大事にしたいと思う。

職場でも半分くらいの人が入れ替わって、一緒に業務をこなす経験を積み上げながら、関係を築いていく。

職場で首を突っ込んでいる業務外の活動にも動きがあって、わくわくすると同時に、この勢いを形にするところまで進めたいなあ、ちゃんと進むかなあという不安もよぎる。

3回目のワクチンを打ったばかりなのにコロナ陽性になってしまい、宿泊療養施設で1週間を過ごす。軽症だったのはワクチンのお陰かもしれないがよくわからない。

子との関わりは比較的あまり変わらない。子が小学校にあがり、入学式に参加したり、交通機関が有料になったり、学童での出会いが新しいブームを呼び込んだりしており、子の体験は大きく変わったのだろうが、2人の時間のすごし方はそれほど変わらない。

祖母の逝去から1か月経ち、四十九日の日も雨だった。まだなんか実感がない。

そんな1か月だった。

 

ばたばたと降ってくる機会に対応するので精一杯で、リフレクションの機会があまり取れていない。この家ではリフレクションを構造的に担保しようとしているのだが、にも関わらず私はあんまりリフレクトできていない。なんていうか、少なくとも私は外界・ソーシャルに回路を向けると内界・リフレクトがおろそかになりがちで、そういう風にできていて、同時に両方できるようになりたいと切に思うのだけど、その点では外界が刺激的すぎて、そっちに物理的時間も心的体力も消費しつくされてしまっていたのだろう。

このブログを書くことで、ようやく内省の機会を持てたような気がしている。(そして、「リフレクション」という言葉は自分にとってこなれないので、あまり使うのをやめよう)

定期的に専門家のところに通っていた体のケアと心のケア(?)は、いろいろあってしばらく空いてしまっている。それらは復活させたい。とりあえずは。

先日見に行ったショウルームで、活動の類型ごとに空間を設計するという取組をしていて、それがすごい面白かった。活動や経験をデザインするために、ソフトやハードをデザインする。直接操作できないものについて、あてずっぽうでなく回路を接続していく取組。見える世界が変わりそう、でもまだ向こう側の景色は見えていない。坂の途中。

(408)春の唄

朝、春用のコートも羽織らずに外に出たとき、寒いと感じなかった。
ここ最近は、日中はだいぶあったかくなってきたけど、それでも朝晩はまだ冷える感じが残っていて、でもそれのなさを感じて、またひとつ季節が進んだことを感じた。
ぴりっとする寒さの代わりに、やわらかくてわずかに湿気を含んだ空気が風になって町中を撫でていく。

あっという間のお通夜・告別式からの初七日に間髪入れず、引っ越しをしていた。
ポンコツは続いていて、新居の鍵を1週間で10回は無くしかけたんじゃなかろうかという具合だが、なんとかひととおりの生活必需品を揃え、仕事で着る服も買い足した。服を買うのはいつぶりだろう。

新生活のために覚えなければならないことがたくさんあり、
そして近くで暮らすひとたちや新しい機会での学びなど、覚えたいことや考えたいことがやまほどある。
おもしろいことは、すごい人たちが関わっていても、はじめから100%の形で実現するわけじゃない。さまざまなことが水を差してくるし、逆に予想外のものが輝きを増すこともある。

(407)ポンコツモード

普段から、注意の偏りや、記憶力の悪さはあるんだけど、それと別に、全身の毛穴からポンコツが一斉に吹き出すような状態になることがある。てか、いまそうなってんじゃないかと、思っている。

 

高次脳機能障害の勉強をしていたとき、人間の脳みそにはこんないろいろな機能が盛り込まれているんだなあと感心したことがある。
たとえば、目標を設定して、そのために何をどの順番でやらなきゃいけないか計画を立て、それを実行しながら実行状況をモニタリングし、なにか不測の事態が生じたら、計画を修正し、時には目標を修正しつつ、なんとかやる、みたいなことを、その本では「遂行機能」と呼んでいた。こういうことが得意な人と苦手な人はいるなあと思うけど、怪我や病気によって一気にできなくなってしまうようなこともあるらしい。
それから、こっちはなんて名前だったか忘れたけど、衝動性を理性で抑えるみたいな機能も備わっているらしい。衝動性というのは、いろいろなことを思いついて、それが即座に発言や行動に表される性質で、個人差はある。そこで、頭に思いついて、言動に表したい衝動に駆られながらも、「いまの状況では黙ってたほうがいい」とか「やり方をこうしたほうがいい」など、2次的に表し方をチューニングするイメージだ。

 

わたしが「ポンコツが来た」と呼んでいる状態は、特にこの2つの機能が、普段と比べて一気に低下する。怪我や病気によるものではなくて、心理的なものが大きい。たとえば、職場でめちゃめちゃ怒られたりすると、この状態になったりする。すると、さらに失敗を重ね、さらに怒られるという地獄のコンボが発生したりする。
ここ2日間でも、職場で人の話を最後まで聞けずに、思いついたことを衝動的に口を挟んでしまう。準備をしなきゃいけないことがあるのにすっかり抜け落ちていて、頭の隅にはあるんだけど実行が伴わなくて、案の定忘れ物をしてしまう。などがあった。人に迷惑をかけてしまっている。

 

ローバッテリーモード。

 

心理的なものなので、じきに元の状態に戻るのだが、数時間から、数日かかることもあり、その最中にいると、「いつこの状態は終わるんだろう」と思う。いつもより長く続くと、焦りみたいな感情も湧いてくるが、これを膨らむままにしていると余計に戻りが遅くなるので、処理が必要だ。

(406)時が止まる

時間停止ものの9割がやらせだとかいうニュースがちょっと前に流れたけど、みたいなひどい入り方をする。ひさびさの更新なのに。
ブログにいろいろお題を設けて、それに縛られて結局更新できなくなってしまうことはちょっと前にもやった気がする。まあいいんだ。何回でも失敗すればいい。

 

それはさておき。
割と親しい人が突然亡くなってしまい、どうにもついていけてない。
「親しい」というのは、願望も含まれていて、「親しくしたかったのに、最近あまり親しくできてなかったなあ」という後悔とか、「本当に親しくしたかったなら、なんで行動に移せなかったんだろうか?」という疑念をも含んでいる。
霊安室で対面するその姿は、一見寝ているように見えて、どうしようもなく止まっている。呼吸でおなかがふくらんだりしない。目を開くことはない。
防腐処理を施したあとに対面したら、綺麗に整えられてはいるんだけど、なんかちょっと縦横比が違うというか、違和感があって、なんか記憶がこれで上書きされるのいやだな、なんかもっとすきっ歯で笑ってるときの顔で凍結したいよなと思っている。

 

その回りで、生きている人間同士がなんやかんや摩擦を起こしている。生きているからね。
死因の説明を聞いたんだけど、なんだろう、めちゃめちゃどうでもいいなと思ってしまった。
いま自分が住んでいる家も、その人の持ちものなので、そういう意味では影響があるかもしれない。きっとあるんだろう。

 

当日の昼に、その人と面会する予定を入れていた。そのときはまさかそれが最後になるとは思ってもみなくて、最後に会えたのはよかったねという思いと、もっと写真撮るとかいろいろしておけばよかったなという後悔が入り交じる。
面会のために家を出ようとしたとき、掛け時計の時間がずれていて、あやうく遅刻しそうになった。秒針が振動しているのだが、同じ場所にとどまっていて、進まない。電池交換をしないといけないんだろうなと、また勘違いしたらいけないと、外して置いておいた。
そんで、大きなのっぽの古時計みたいだなと思った。

 

ただの日記でした。