(44)ねかさない/なじめない

当たり前のようでけっこう忘れてしまっていること。
手遅れってものはあるということ。
後回し、先送りにすることが、とりかえしがつかないことになる。

すべての選択についてうまくやることはできないけれど、
その案件が自分にとって(人にとって)どれだけ優先度の高いものなのか、
自分がそれを着手する準備ができているかどうか、
それを放置しておくことが悪化をもたらすかどうかの読み、
について自覚的でいること、アンテナを立てておくことは重要に思う。

 

その文脈と、つながってはいるものの、中心的ではないんだけど、
前々から気になっていた「イベントバーエデン」(東京本店)に行ってみた。
https://twitter.com/eventbar_eden

そういえば、前に札幌のほうに一度行ったことがあったのだった。
場所自体はおもしろいなと思いつつ、私自身がいまいち楽しめないのは、
たぶん社会性の低さとそれに付随するものが大きいのだろう。
要町ということで、いろいろ思い出してしまったのもある。

これについては、少しでも話題に入れそうな回を狙って、あと2回くらいは行ってみよう。

(43)カウンセリングのつかい方

わけあって、今年度に入ったあたりから、カウンセリングを受けている。
それは、私が直面しているAという問題をどうにかしたいと思ってのことだ。

 前に書いたように私は人に相談することに苦手意識を持っていて、
それは知人か専門家かを問わない。

sunasand.hatenadiary.jp

前に一度、全然別の問題のときにカウンセリングを受けたのだが、
いまいちで1回きりで中断してしまった。
今回は、いろいろな事情があって、5回くらいは続いている。

Aという問題は、少しずつ悪化しているように思える。
そんな中、カウンセリングを通じて、少しずつでも問題を整理し、切り口を見つけたいと思っている。

 

Aという問題と平行して、私はBという問題を抱えていた。
正確に言うと、私の近しい人が問題を抱えており、私は助けになろうとしていた。
そのBという問題は、あるとき形を変えて、B'という、私の問題になった。

こないだカウンセリングに行ったとき、私はAという問題を話したいと思ったのだけど、カウンセラーの先生からは、B'という問題を取り扱うことを勧められた。

B'という問題は、私にとっては決して軽くないものなのだが、それは自分なりになんとかしようと思っていて、いくつかの作業を行ったり、ふと突然頭の中浮かぶものにその都度対処したりしている。
なにか目的があるものではない、強いて言うなら、へちょんとなることを避けること。そのために、やれることをする。ここで言葉を紡ぐことも、その大切なプロセスのひとつだと思っている。

 

これと別に、産業医面談のようなところでも、B'という問題があることを話したら、それについて聞かれたのだが、それはもっと露骨に苦痛だった。私にとってその体験は、とても治療的とは思えなかった。
私はそれを、専門家といえど他人に相談する形で取り扱うことを、少なくとも今の時点ではあまり気が進んでいない。文字のかたちで吐き出すことと別に、話し言葉のかたちで吐き出すことには意味があると思う。でもそれだけならば、もっと適切な相手がいると思っている(あまり自信はないが)。

だから、次に会うときは、自分がこの場でB’という問題を取り扱うことに疑問を持っていることを伝えた上で、なぜカウンセラーはB'を取り扱おうとするのか、聞いてみようと思っている。

(42)人に相談できない

こないだいとこに声をかけてもらい、久しぶりに話をした。
私の家庭にあったことをいろいろと知っている人で、
私の近しい人ともいろいろとやりとりをしている。
小一時間くらいの話は、淡々としていたけど、
ポイントとなる問いに答えることで、自分の思っていることを確認したり、
あとはいくつかのコメント、提案をしてくれた。
とてもよい時間だった。
ありがたい。

 

私は人に相談するのが苦手だ。
ありとあらゆる相談が苦手というのでなく、自分の根っこにつながるようなテーマの相談がとても苦手だ。
それを人に伝えることもへたくそなんだろうし、相手の言ってくれたことを自分に取り込むこともへたくそなんだろう。加えて、相談を申し出ることも苦手だ。
仕事に関することは、自分の根っことは切り離されていることが多いので、比較的相談しやすい。
ある種のテーマについて、自分の中に閉じている。
外部リソースの力も借りることができるなら、もっと学び、もっとよいことができるんだろうと思う。あきらめなくてすんだことが多かったのかと思う。
このままではよくないと思っている。変わったほうがいいとは思っている。けど、こんな私でも相談できる道がひとつでもあれば、それを全力で大切にするというのも、ひとつのやり方かもしれない。

 

汎用的なものが使えないという性質。
自分用にチューニングしないと使えないという性質。
他人のものをそのまま受け取ることができないという性質。
できないわけではないが、大幅にパフォーマンスが低下する。
人からもらったアドバイスが腑に落ちないと、自分で実践するのに抵抗がある。生半可に取り入れても、少しでも想定外のことがあると、次にどうしていいかわからなくなるのが怖い。
人からは頑固だと見られるかもしれない。それは事実そうなのだ。でも私は、取り入れようと思ってもどう取り入れたらいいかわからず途方に暮れているのだ。あるいは、取り入れるための壮大な道を進んでいるところなのだ。
自分の苦手さについて、ナビゲーションブックのように、体系的にまとめるべき時期が来ているのかもしれない。

(41)サンキュー・コバエ

家にコバエが発生している。
原因は明確で、私が生ゴミを放置してしまっているからだ。
逆にいえば、生ゴミが出るほど、家でご飯を食べているということでもある。

私の価値観は、コバエの発生をよいと思っていない。嫌だなと思っている。
だけど、たぶんある種の人から見るとその反応はマイルドすぎて、平気なように見えるかもしれない。反応がにぶい、だらしないように見えるかもしれない。
「見えるかもしれない」と書いたが、それはそれで事実なんだ。主観的に0.001あることは、世間的には0ということ。そういうふうにできている。

自分としては、見えるものがすべてだと思い込む癖を改めたいと思っている。自分が感知できるものは、自分のアンテナに依存するし、対人場面では相手の自分に対する信頼感にも大きく依存することを、忘れてはいけない。

コバエの話をしていたんだ。
コバエは、夏の訪れとともに現れ、私の生活習慣の、問題点を浮き彫りにしてくれる。
とても迅速で、感情面を喚起する、すぐれたフィードバックなのだ。
私はコバエの発生を抑えようと躍起になって、生ゴミをこまめに処分しようとする。
そこで一旦やり方を覚えて習慣化してしまえば、秋になって、コバエ・フィードバックの力を借りなくても、自力で生ゴミ処分の行為を維持できるかもしれない。

(40)心の中で生きている

 自分たちが中高生の時代に流行ったライトノベルの新刊が出たと、去年けっこう話題になったのだが、読めずにいたものを、どこぞの書棚から借りてきて読んでみた。

 当時の自分が熱中したのと同じ温度で読むことはできないが、それでも自分の一部を形作っているものが共鳴し、自分にとって特別な作品シリーズだということは実感できる。

生身の人間が生きるということと、また違う意味で創作物のキャラクターが生きる、多くの人の間で現実となっていることの意味があり、そこから生身の人間が生きるということについて、より深く掘り下げることができるんじゃないかとぼんやり思う。

(39)たりないなりたる

新しい大学院の説明会を聞きにいってみる。
あたらしい学びの機会、同じような志をもっているかもしれない人たちが同じ空間に同席すること。

 

高校の同級生と久しぶりに集まって、歌ったり飲んだり馬鹿騒ぎをする。
みんな仕事をしたり、家庭ができたり、それぞれを生きている。

 

楽しみが足りないと、かき集めたくなるような気持ちになっているときは、なんかちょっと、よくないものが漂っているんだと思う。
ささいなことを楽しめるか、心を揺らせるかは、きっとこちらの気の持ちよう。
灰色なのは、砂の味なのは、きっとこちらのあり方が現れているのだ。

 

やろうと思っている仕事が積み重なってきている。
整えていく過程、きしみに耳をかたむけること、無理はしないこと。
悲しみをあたためることと、おおうことの、並行世界を生きること。

どんな状況でも、生きることは、生きること。

(38)生活の基本

あたらしいことをはじめて、何度かくりかえしている。
まったく同じではないけれど、前の経験が重なって、少し気づきが拡がったり、工夫を加えたり、バリエーションを感じたりする。
どきどき感のチューニング。
はじめてのときほど高くない、ちょうどいい緊張感の水準。
これをただ漫然と繰り返し続けると、たぶん気づきは薄くなり、自動化されていく。
そのあいだの気づきを土台にして、さらにあたらしい挑戦を加えると、そのちょうどいいどきどき感がつづいていく。とても学びの多い時間。

わたしの今週のトピックは、ご飯を炊くこと、肉と野菜を炒めること、インスタントみそ汁、そしておにぎりを2つ。作って食べて洗うこと。お風呂に入って寝ること。

 

仕事のやり方や、職場づくりに関する本を読み直している。
一度読んだだけでなんとなくわかったつもりになって、そのまま流れてしまったもののなんと多いことか。
章のおわりにまとめが書いてあっても、少なくとも自分の言葉でまとめ直す。腑に落ちない言葉は使わない。味のないガムを噛むように、白地図を眺めるように、知らない言葉に飛び込むことはそれはそれでしてみる。
本に書いてあることは、一般論だったり、他人の事例だったりする。それと私の間には距離がある。その距離を埋める作業が重要なのだ。
中でも、異なるソースがつながる瞬間はとてもおもしろい。仕事のやり方を標準化することの重要さについて読んでいるとき、借金玉の本が頭をよぎる。標準化されたやり方に合わせられない人もいる。そりゃそうだ、どっちもそうだよな。表と裏から光が当たり、突如として立体感が浮かび上がる。
個人的には、もうちょっと足りない。実践まではもうちょっと。手を動かすと、経験は圧倒的な量になり、整理するのが大変になる。膨大なものをなんとなく整理する機能は私に備わっていなさそうなので、バイパスを、そのプロセスを進めるための部屋を作ってやる。

 

生きるというのは、まあ、いつか終わりはくるのだけど、感覚的には終わりのない、というか、終わりを意識しない、続き続けることを意識するプロセスだ。終わりのある中のプロセスと続いていくプロセス。続いていくものを、終わらせたくなることもあるだろう。終わりのあるものを、続かせたくなることもあるだろう。そこには想いが詰まっている。