(69)夜と夜と朝と夜と朝

ゴミ袋を出してきて、部屋中のゴミを集める。
掃除機を出してきて、部屋中の髪の毛とかを吸い込む。
部屋中の落ちているものを、本来あるべき場所に片付けていく。

2013年10月のプレイリストには、ワールド・エンズ・スーパーノヴァとバッハの旋律を夜に聴いたせいですの2曲だけが入っていて、交互に流れ続ける。

夜に合いそうな局を朝に聴いて、クチロロみたいな気分になる。

 

(68)リディラバからの社会問題

リディラバの安部さんという方の話を聞く機会があり、
何度か関心をなぞりながら十分に深め切れていない、
特定のイシューに限定されない「社会問題」ということが気になっている。
ちょっと前は、育て上げネットの井村さんが紹介していた「総合福祉」の考え方、
それとほぼ同時期にRebitの藥師さんが掲げていた、LGBTに限定されない
ダイバーシティインクルージョン」が気になっていた。
自分の中で、あるいは社会の中で、そういうものがトピックになっているのかも。

わたしの人生のほうは、もうこれ以上ないっていうほどひどい状態なんだけど、
寝ても覚めてもそのことばかり考えてしまって、寝るも食べるもできないよりは、
こういう「脱線」に心惹かれるほうが、結果としてこっちの問題にも腰を据えて
取り組めるんじゃないかという気がしている。
つらいことばかり考えていると、単純に持続性がない。心身が保たない。

スタディツアーで足を運んで、話を聞いて、手を動かして、何かを感じる。
隣の人と話し合って、考えを広げて、深めて、次の行動につながる。
あるいはジャーナルで集中的に情報をインプットして、問題の構造を俯瞰する。
スキマの時間を使って、インプットとアウトプットの短いサイクルを
いくつか続けてみようと思っている。

海外に行った人が、自分の生まれ住む日本について理解が深まるように、
私が携わっている仕事と近いけど異なることをやっているところに触れることで、
私の仕事自体がもっとよく見えるようになるんじゃないかと思っている。

(67)人と行為と感情の親密さ

昨日の、遅くとも夕方くらいから今朝にかけて、雨が降ったらしい。

昨日の昼にたまたま外出したら、この季節にしてはびっくりするくらい暖かくて、

そして風が強く吹いていたから、これから一気に寒くなるために、

勢いをつけてるんじゃないかって、そんなことをぼんやり考えていた。

 

早い時間に起きて、雨がやんだらランドリーに行けるかなと思い、

でも寒そうだからまずは湯船に入ってみた。

そしたらランドリーに行く時間はなくなった。

開店した直後のドトールでモーニングを頼もうとしたら、年輩の方々で賑わっていた。

ちょっと、いいな、と思った。

 

行為を駆り立てているものは、いくつかの種類がある。

ひとつ、ある状態から反射的に生じるもの。

ひとつ、自分の状態に作用しようとするもの。

ひとつ、周囲に作用しようとするもの。

ひとつ、成果物を創造しようとするもの。

ほかにもあるかもしれないが、主だったものはそんな感じだろう。

 

自分の行為が、どういう力動で生じているか、仮説を持つこと理解すること。

他者の行為が、どういう力動で生じているか、仮説を持つこと理解すること。

自分と他者、他者と他者の行為の連鎖が、どういう力動で生じているか以下略。

目的のある行為の場合、行為によって目的が果たされたのかどうか。

意図的な行為によって、想定外の意味が生じているかどうか。

 

普段乗らない電車は、ちょうど通勤ラッシュで混んでいる時間帯で、

湿度も上々、空気のうすさがとびっきり。

 

人と状態、行為を強く結びつけて、責任と呼ぶ。

そこから切り離していくためのこころみについて。

(ちゃんと知らないけど、)受動態と能動態の間にある「中動態」という提案。

属人的を脱出して、仕組みづくりで問題を解決しようとすること。

具体と抽象のフェーダー。

ポジティブなものは生かしつつ、悪さをするものは押さえていく。

それはダブルスタンダードに、つまり、誰かの正義を侵害し、結果として、人とつながることを妨げるだろうか。

 

正しくありたい、の、重要な部分は、「正しく」ではない。

圧倒的に、「ありたい」が大事だ。

わかり合いたい、の、大事な部分は、「たい」だ。

 

自分にとって、望ましくないことは、嫌なことは、ありふれている。

望ましくないことや、嫌なことを見つけると、その出所を見つけて、

直したり、排除したり、消滅させたり、したくなる。

それは自然な、ナイーブな力動だ。

言葉や概念を扱うことに慣れている人間は、ナイーブな力動を、

さまざまな概念とくっつけたり、コーティングしたりする。

それによって、他者の理解や賛同を得やすくなったりするし、

自分の中でも附に落ちるような感覚を得られたりする。

それが持つ危険性は、しばしば見過ごされる。

 

ナイーブなものを叩くと、それは防御をし始める。

その過程で、歪みを持ち始めることもある。

共感と非共感を糧にして、どんどん成長していく。

そういうふうに、できている。

 

 

(66)FUN

今年は珍しく仕事で外に出ることが多いのだけど、
週末は一泊二日で趣味のイベントに参加してきた。

Agile Tour Osaka 2019 × miniPLoP

3月にAsianPLoPでお会いした縁でお声かけいただき、
パターン・ランゲージの論文についてコメントし合う、
ライターズ・ワークショップに参加した。

自分の分は3月のときからブラッシュアップできなかったが、
それでも短い時間で次につながる様々なコメントをもらえたし、
他の論文もソフトウェア開発から遺産相続まで多岐に渡っていて、
あまり知らないその分野に興味が持てたのに加え、
背景にあるパターン・ランゲージの作成・活用についても理解が深まった気がする。

スクラムについて、学んでみようと思う。
話題に出ていた、来年3月のAsianPLoPは、台湾で開催されるそうで、
ウェブサイトを探してみたら、論文の締切はなんと12月1日と、1か月もなかった。

 

気になっていた、来年開講される大学院の募集要項が発表されたのだけど、
出願書類にTOEICTOEFLをつけるとなっており、ふんにゃりしたところだった。
これを機に英語を勉強してみようという波が少し立ったけど、時間がなさすぎる。
長いこと英語を毛嫌いしたきた自分にとって、意味のあるものとして捉えるならば、
精度の低いコミュニケーションを受け入れるよい機会かもしれないと思いついた。
ほかによい言葉が思いつかないので皮肉を言ってるみたいになってしまうが、
ボトムアップで情報を積み上げていき、ロジカルに情報を結合して大意を掴む
というわたしのスタイルにはけっこう限界があって、それを突破するには、
もうどう逆立ちしたって細かい意味なんて理解できない状況が役立つのではないか。

 

そしてもうひとつ、Twitterで流れてきた特別支援教育の話題のつぶやきで、
「合理的配慮と基礎的環境整備をセットで考えるべき」というものが、働くという文脈でつながった。
私がやっていることに一本意味が通る、鍵概念になるんじゃないかと思っている。

 

大阪からの帰り道、Fun Done Learnというふりかえりのやり方を教えてもらったのだけど、
うまくやること、成長すること、そして楽しむことは、どれもとても大事。
失敗し、変わらずに、苦しいばかりから脱却するために、いまできることがあると信じてみる。

 

(65)生存報告

夜中に目を覚ますと、寒気を感じた。

風邪の引きはじめのときのやつではなくて、白湯を飲んだり、熱い風呂に入ればすぐに飛ばせるやつ。

2時とか3時に起きると、前は寝られないのが苦しかったが、最近はもうそういうもんだと思ってぼんやり過ごしている。

 

食事は、だいぶしばらく、食べても食べなくてもいい感じだったのが、腹が減ってなくても食べるようにしていると、空腹という感覚が生じるようになってきた。

腹が減るから食べるというより、食べているから腹が減るということも、大いにあるんだろう。

 

おいしいものを食べたいという欲求は見当たらないんだけど、ずっと欲しかった新しいiPad miniを買ってみた。

新しみはあまりないけど、スピードが速かったり、容量を気にしないでよくなったり、物理的に軽かったり、わかりやすく快適だ。

アカウントの引継が完了して、Apple Pencilのために紙の質感が出るフィルムを貼って、有線のキーボードの反応速度がよかったら、きっともっと愛着がわくだろう。

(64)断片的なツイッタランドの奥

断片的なものを受け取ったとき、断片的な水準のままで取り扱うのか、それがつながっているであろう、自分にとって未知のかたまりについて知ろうと進んでいくのか(あるいはそもそも受け取りもしないのか)。

ツイッターには膨大な断片が洪水のように流れている。それらひとつひとつの多くは、なにかしら互いにつながっている。事件やニュースへの反応だったり、ツイート同士がリプライやリツイートでつながっていたり、アカウント同士のフォロワー・フォロイーのつながりだったり。しかし、一定線があるようなものでも、まだまだとても断片的に見える。その背景になにがあるのか、どういう意味でそういう言葉を書いているのか、よくわからないことがある、という意味で。

そんなとき、自分のそのとき持ってるものさしで処理するのと、「なんだこれ?わからないぞ?」と思いながら探っていくのでは、同じ刺激に対する反応であっても、かなり異なるベクトルを向いているように思う。一見、探っているような人でも、自分の仮説を確かめようとしていたり、自分の次の手を決める参照材料にしかしてない人は、自分の頭の中にいる。その人の経験にならない。洗練はされるかもしれないが、拡がりがない。

そこには、「わからないものを、むりやりわかる」という動きがあるように思う。でもそれは、本人としては「わからない」と思っているわけではない。その認識が誤っているわけではない。どんな場合にも大なり小なり「わからない」ものはあるので、その程度の評価と、総じて「これはわかるものか、わからないものか。」というデジタルな判断を最終的に行う際に、どんな基準やプロセスを採用するかという違いなのだ。

わからないものと、嫌いなものは、しばしばごっちゃになる。それは、わからないものが同時に嫌いなものの場合が多いからじゃないかと思う。わからないものを、むりやりわかろうとしたとき、大体はネガティブなカテゴリに入れられるんじゃないか。時々、「わからないけどポジティブ」もあるように見えるけど、それは周りに流されているときが多いような気がする。自分ひとりで判断するとき、わからないものはだめなもの、いやなものにされがちだ。

好奇心という言葉、心のうごきは、「わからない」への求心力だ。わからないものをわかりたいと思う心。そして好奇心は猫を殺す。わからないものへ向かっていくと、傷つくことがある。傷つくことが多いと言ってもいいかもしれない。だから怖い。傷つきたくない人が、わからないものを避けるのは、とっても理にかなっている。わからないは、よくも悪くもストレスだ。それをいい経験にできるには、自分にそれなりの体力がないと難しい。

ギリギリの状態で断片的なものに接すると、その背景を掘り下げることがおっくうで、断片的なままで処理してしまう。そのうちに、断片的に処理することがくせになって、元気なときでも断片的なままで処理してしまうようになってしまう。それは、必要な場合もあるけれど、大事なものを逃してしまうことにもなる。

断片的なものから、その根っこに向けて探るうごきのはなし。それは外部の刺激だけではなくて、実は自分についても言えるのだけど、またそれはあらためて。

 

(逆に、断片的なものを見ただけで、ほんとうに十全にわかってしまう人もいて、その人からすると、なんで多くの人はこんなにあからさまなものを誤解しつづけているのだろう、ここまで徹底して理解しないのは悪意か、無能によるのではないかと考えたくなり、批判したくなったり、うんざりするかもしれない。それもまた、大事な話。)

(63)たれながし

仕事が溜まっている。
毎週パソコンを持って帰るので、ソフトウェアのアップデートができない。

近所のスーパーで買ったキレートレモンを毎日1本ずつ飲んでいる。

やることの優先順位や、どこまでやるかということにケアをしてないから
与えられた時間に収まらないのだとはわかっている。
こういうところを、知識を付与する研修や、実践事例の共有などを通じて
組織的に底上げしてくれたらいいのに。

 

と、そう、昨日受けた研修がとっても面白かったのだが、
誰かがやってくれるのを待ってないで、自分からやってみたらどうかと
いう話をしていて、それは非常に共感できつつ、やれずにきてるなあ、
なんでなのかというと、たぶん余裕がないからなんだろうけど、
じゃあ立ち返って、私はどうしたいのかということを考えてみよう。

 

風邪は咳だけ残り、厄介だった鼻水の症状は消えてくれた。
めっきり風呂がぬるくなって、汗を掻くまで入れないことが増えた。
アンテナを立てる、受け取ったものを味わう、アクションにつなげる、
そのシンプルなサイクルを、ひとつずつでも回せる人生を。