(405)動ける身体をとりもどす

1月の、身体を整えることについて。

毎年年始に、ジョギングを始めることが多い。毎年始めるということは、毎年どこかで挫折しているということだ。うちではほとんどテレビを見ないので、駅伝に触発されるということもないのだけど、私にとってのジョギングの意味合いを考えてみると、年末年始のなんやかんやに頭がごちゃごちゃしてきて、それをすっきりさせたくて走るのかもしれない。もしそうだとすると、走らなくなるのは、頭がごちゃごちゃしてないからなのかもしれない。あるいは、ごちゃごちゃしていることに慣れきってしまったからなのかもしれない。

今のところ、ジョギングの習慣は続いていると言えよう。私は演劇サークルのときの名残で、ジョギングのことを「外周」と読んでいる。週に1~2回の頻度でやりたいとなんとなく思っていて、実際はかなり不定期だけど、週末は40~50分を目標にして、これまであまり走ったことのない道を選んで楽しんでいる。帰りは電車に乗ることも多い。平日は30分で家の近くを一周して戻れるようにしている。

職場の人に教えてもらって去年の秋から通っている整体。隔週ペースで落ち着いてきて、1月は2回予約したが、1回目のときは「けっこうよくなってきてますね」だったのが、2回目のときは「固くなってますね」だったのがショック。ストレッチや外周を少しサボり始めていた時期と重なっていたため、(本当に関係しているかは不明だが)これはいかんと引き締め直す。

風呂上がりに簡単なストレッチをするのは、一時期危うかったけど、だいぶ習慣化してきた。夜風呂に入り損ねると、オートでストレッチも飛ばしてしまうのが難点。腸腰筋と内ももとお尻の筋肉のミニマムだけど、本当は某教授みたいに毎日1時間ストレッチしたい。

 

老いということについて最近話す機会があって、中年というものは、社会的には拡大期にあるのに、身体的には衰えが始まるというずれがあるよね、という話が面白かった。それはどうしてもあるんだろうけど、内蔵みたいに鍛えようがない部分と、使い続けることで、現状維持とは言わずともだいぶ低下を抑えられるようなものもあるんだろう。

(404)息をするように学ぶ

私は、自分で何かを学ぶことを、「Future Track」と呼んでいる。
おそらくたぶん、日本語の「まなぶ」とか「勉強する」という言葉が、あまりしっくりきていないからだろう。「learning」なら、気持ちマシな気もするが、それでもイマイチだ。だから、造語を当てはめてみた。そういう、中二病みたいなところがある。
「track」という英単語は、「わだち」とか「跡」みたいな、過去のものを表す意味と、「船の進路」みたいな、未来のものを表す意味がある。「future」をつけることで、未来のほうの意味で使っていることを明確にしたのだろう。そのままだったら進んでいたであろう進路が、何かを学ぶことによって、すこし変わる。あるいは、選択肢が拡がる。そんなイメージ。

 

さて、1月の私は、どんな学びを経験したのだろう。
・同じ採用区分の若手の人が企画した勉強会のサポートで動き、海外の大学で公共政策を学んできた方の話を聞いた。それと別に、採用区分の勉強会で、自治体に出向して、普段と全然違う仕事をしている方の話を聞いた。
・昨年開催した勉強会を振り返る記事の中で、自分の経験を振り返って短い作文をした。自分の写真が思った以上にパンパンに膨れていたのがショックだったが、写真写りどうこうというより、きっとこういう顔をしていることを自覚していなかったのだろう。
・退職した同期の企画した勉強会で、「高齢者の孤独とお金」をテーマに意見交換をした。高齢者という観点で親を見る視点、高齢者への準備段階という意味で中年に突入した自分を見る視点。老害にならないための学び&アンラーニングが必要なのでは。
・「ダイレクト・ソーシャルワーク ハンドブック」読書会。別件で参加はできなかったけど、担当箇所の内容をまとめた資料を作った。
・「ケアするのは誰か?」読書会。担当範囲をまとめて発表する。ケアをいくつかの段階に分解して、「実行」だけでなく「責任」にも着目している点が、(まだよくわかってないけど)興味深い。
・読書は、SNSで見かけた「SHARE LIFE」がなんとなく気になり購入(まだ読み途中)。コロナ前に出版された本なので、適用するにはアップデートが必要だけど、基本的な考え方はとてもよくわかった。そこから偶然目に止まったシェアハウスの内覧に行くことにする。
・仕事絡みで濱口桂一郎氏の著書に言及があり、買ってみようと本屋に行ったら、同じ著者の別の本が気になり、そちらを買う。膨大な情報をシンプルなコンセプトで大胆に説明する。仕事をする上で、こういう基礎体力を身に着けておきたいんだよな。そして早く、「濱口氏のここはおかしいと思う」的なことが考えられるようになりたい。
・仕事絡みで同業他社(的)の方と意見交換。予定時間を遥かに超えて2時間ぶっ続け。ここで出たアイデアをもと掘り下げて、ひとつでも実現させたい。
・仕事絡みでキャリアコンサルティングについて取材。ちょうど無料で受講できる研修があることを知ったので、そこで基本的な知識を整理してみよう。
・何年か前に活動していた、障害のある人の学びや働くことについての集まりで、ひさびさにオンラインで近況報告会。発起人の人は遠くの地で、また新しい活動を始めているみたい。
・これまでオンラインで話したことのあった、職場界隈でネットワークづくりに動いている方々と、初めてオフで会って話す。トータルの存在感。メインの活動はうまく引っかからないままだけど、なにか経験が積めるかもしれない。

 

オンラインの勉強会がいくつか回っていて、そこで複数の本を読むことになっている。それ以外にも読みたい本がちらほら見つかって、ひとつひとつを見るとあまりペースがよくない(読みたいほど読めていない)。分配の問題もあるけど、絶対的な読書の時間をもっと増やしたい。

勉強会のロジの経験がちょっとずつ自分の中に溜まってきた。そろそろアウトプットして、公共財にしたいと思っているところ。

昨年3日坊主的になった、日曜朝の自習室は全っ然できていない。既存の勉強会に便乗して取り上げられないかなということをちょっと考えている。

十分かはともかく、それなりに学びの機会は持てているのだが、おそらく計画性が欠けていて、リマインドを受けて慌てて作業するといったことの繰り返しになってしまっている。それはそれで溜まるものはあるのだが、それだけだとよくないので、学びの計画を立てて、実績と突き合わせるようにしたい。これは2月の課題。

(403)習慣のメロディ

1月のことを書こうと思いながら、どっから書いたものかと思っている。
あっという間に2022年の1か月が過ぎたような気もするし、
いろいろなことが詰まっていたような気がする。

時系列でずらずらと書くのは、書きやすくはあるけどごちゃごちゃとしていて、
そこから次に考えを深めるには距離ができてしまうような気がしている。
だから、なにかテーマを決めて、それごとに1か月にあったこと、考えたことを振り返りたいと思っている。

単発の行為でなく、それが繰り返されているというところに焦点を当ててみる。
音楽が、ひとつの音だけでなく、音と音の組み合わせでできているように。

 

とは言っても、習慣の始まりは、1回の行為だ。
それが単発なのか、始まりなのかは、その時点では確定していない。
1回目からほどなくして、2回目に同じような行為をもう一度したとき、遡って1回は1回目になる。
3回目くらいまでは、そういう手探り感があるが、1回目・2回目と比べると、だいぶ手探り感は薄れている。
手探り感、言い換えると新規性のみに駆り立てられて行動していると、このくらいで飽きて(うまみがなくなって)きて、文字通り3日坊主になってしまう。
だからこの辺で、新規性のドライブから繰り返しのドライブに移行することが重要になる。

 

習慣化のポイントの1つは、予定を立て、見通しを持つことだ。
昨年バイブル的に読んでいた「家事のきほん」という本で、いろいろな家事が、頻度ごとに整理されていたのを参考にして、「随時やること」「毎日やること」「毎週(OR隔週で)やること」「毎月(OR隔週で)やること」というラベルをつけている。実際に何をやるかよりも、どのくらいの頻度でやるかということが、実質的な負担感には大きく影響するし、そして何よりいいのは、頻度を変えることは簡単にできるということだ。

習慣化したいことを、試しに1回やってみる(そこまでに準備が必要な場合もある)。1度やったことを、もう一度、もう二度と繰り返してなぞってみる。そのときの感覚を踏まえて、どのくらいの頻度がいいか、当たりをつける。Trelloというメモアプリにカードを作って、頻度を示すラベルをつける。チェックリストに繰り返しの予定を書き込んで、実行できたらチェックしていく。段々と、レールが敷かれて電車が走り出すような感覚がある。

自分ひとりで行うような習慣は、実行するタイミングを自分で決められるので、そんな感じで組み上げていく。一方で、アポイントを取るような習慣は、もうすこし不定期になりがちだ。漸化的というか、行ったときに次の予約を取る(大体の間隔の目安はあるけど、相手の都合もあり、実際には伸び縮みする)こともあるし、前に行ってからしばらく経って頃合いだなと思ったときに次の予約を入れるようなこともある。そっちは頻度だけでなく、経験自体も他人にお任せするような要素があり、必然、コントロール感が薄れる。そこでは、柔軟に対応しつつ、主体性を手放さないようにすることが重要になる。

今年に入ってから、朝仏壇に線香を上げて、カーテンを開けて、サッシを拭くということを毎日の習慣にしている。2~3分でできるので、どんなにドタバタな朝でもなんとか実行できている。ジョギングは毎週の頻度を目安としているけど、なかなか実行が安定しない。去年から通い始めた整体は、だいたい月に2回の高頻度で通っていて、出費はかさむけれど、それだけの効果はあると思っている。

 

習慣をデザインして編み上げていくことは、おもしろい。

(402)断片的なところから

物事の認識のしかたや、コミュニケーションのスタイルには個人差があって、よさも悪さもする。発達障害のある人の支援の文脈では、視覚優位・聴覚優位・言語優位みたいな言葉を使うこともあるけど、もっといろんな観点がある。認識やコミュニケーションのレパートリーが沢山あって、その場その場で最適なものを選んで合わせていける人もいれば、ある限られたやり方をどんな場面でも使う人もいる。後者は、環境とうまくはまると能力を発揮できるが、そうでないとボロボロになったりする。ある場面でのその人の評価と、別の場面でのその人の評価がちぐはぐに見える。それをむりやりまとめるために、「気分屋」だとか「一貫性がない」と見られることもある。でも実は、本人のほうは一貫していて、目まぐるしく変わっているのは環境なのだ。逆に前者の人は、本人がくるくると変わることで、環境との関係性を一定のものに保っている。

 

わたしの認識やコミュニケーションのかたちは、どうやらだいぶ偏っている。どういう意味かというと、さっきの話の後者に近いということだ。レパートリーの少ない人は、自分の数少ないあるいは唯一のレパートリーがどんな特徴を持っているのかを、よく知っておくことがすごく大事になる。レパートリーが多い人にだって同じことは言えるが、レパートリーが少ない人にとっては死活問題となる。自分のレパートリーを知って、それが環境とのミスマッチで悪さをしないように、弱点を補強するトレーニングをする。あるいは、環境を選択・調整する。それらは自力でやるだけでなく、支援者やその他リソースを借りることもできる。それでもまるっきり人任せにしてしまうとあまりうまくいかないことが多くて、自分でできるところは自分でやることが重要だと思っている。

 

わたしの物事の認識は、すごく断片的なところを基本にしている。ジグソーパズルとか、ブロックみたいなものは、ひとつひとつに意味があるというより、組み合わさったときに重要な意味を持つ。現実の世の中も似たようなところがあって、大事なところを捉えるためには、ある程度のかたまりで情報をとらえる必要があるのだけど、わたしが注意を向けられる範囲はだいたいそれよりも少ない。だから大いにとりこぼす。
情報がリアルタイム、動的なものだと、取りこぼしたものはもう拾えない。対面でのコミュニケーションは基本的に動的で、だから大事なものを見逃す。わたしは特に、言語的な情報を優先して受け取り、そうでない情報を見逃す傾向が強く、さらには(非言語の)視覚的な情報を見逃しがちなので、人の顔色の変化に全然気づかない。声色の変化のほうがまだちょっとだけましだ。
情報が静的で、あとから見直すことができるものだと、一度に全部は受け取れなくても、順繰りに拾っていくことができる。それでも時間がだいぶかかってしまうのだが、文字情報であれば処理速度はそれなりに速いと思っている。それから、論理的な構造を捉えるのも強いほうだと思うので、論理的な文章はだいぶ理解しやすい。逆に、言語であっても、詩のような、論理でないところで紡がれる文章は、受け取るのにとても時間がかかる。

 

このブログは、わたしが世界を認識しているさまを書き連ねて、忘れてしまっても読み返せるようにして、そうして少しずつでも、よりよく生きていけるようになることを目指している。その方法として、ひとつのエントリにひとつ、自分の気になる概念・キーワードを取り上げて、それについて考えるということをしてみる。

これらのブロックが積み上がったとき、どんなものができるかは全然見えていないが、なんかよいものになるんじゃないかと、なんとなく思っている。

(401)暦の力を借りる

2022年になって初めてブログを書く。
これまで書こう書こうと思いながら1か月が経ってしまったのだが、
月の変わり目に力をもらうイメージで、優先順位をぐぐっと引き上げ、
床掃除と朝蕎麦の代わりに、朝の時間で書いている。

 

私が大切にしたいことはどんなことだろうか、と考えたとき、3つの領域が思い浮かぶ。
仕事のこと、生活のこと、そして、それらのどちらにも入らない、わくわくすること。
3つ目の領域には、わたしが「Future Track」(FT)と呼んでいる、興味のあることを学ぶことが含まれる。
それから、わたしが「PluterBulter」(PB)と呼んでいる、自分・他人・世界と疎通することが含まれる。

 

PBのなかで、最近特に気になっているのが、「やろうと思ったことをいかに実現するか」だ。大掛かりなプロジェクトの管理もそうだし、細かなタスクの管理もそう。自然体だと、実現できることとできないまま・できずに終わってしまうことのムラが大きくて、取りこぼしが多い。認知能力に大きく偏りのあるわたしが、どのような対策をしたら、すこしでも現状を変えることができるかを、よく考える。
実現を妨げる課題の1つは、やりたいことを忘れてしまったり、どこかにメモをしても、それを見つけられないことだ。だから対策の1つ目は、見直せるメモを取ることになる。これまでEvernoteというメモアプリを使っていて、これはこれで便利なのだが、空間的な自由度があまり高くないこともあり、長期的なタスクを一覧するにはあまり向いてないと思っている。

そこで、去年の12月くらいから、Trelloというアプリを使い始めた。これはタスク管理に特化したアプリで、ボード・リスト・カード・チェックリストといったいくつもの階層で、タスクを管理することができる。使い方が整理できなくて、荒れ果てかけたときもあったのだが、コアな機能である「やりたいと思ったことを放り込んで、そこを見れば思い出せる」ということを実現できている。

実現を妨げるもうひとつの課題は、割り込みタスクや差し迫っているタスクに追われて、いつになってもタスク消化に意識や時間を当てられないことだ。これへの対策は、まだしっかり掴んだわけではないが、タスクの実行時期をパッチすることと、棚卸しの時間を作ることがよいのではないかと思っている。

期限がない、いつやってもいいことは、結局いつまでもやらないことになってしまいがちだ。だから、実行時期が決まってタスクについて、「今週やろう」のリストにまず入れる。それから、「今日やろう」のリストに入れる。「今日やろう」のリストに入れても、できないことは多いのだけど、やれなかったことが可視化されるので、「明日こそやろう」というモチベーションが僅かに上がる。そうやって、何日か引っ張ったあげくに消化するということがある。

それから、1日・1週間・1か月のはじめや終わりの節目に、やろうとしたことがやれたかどうか、ふりかえる時間をつくる。そのときにやれそうだったらやってしまうし、そうでなければ、なぜできなかったかを考えながら、タスクを分解するなどして、やれそうな未来のタスクに変換する。暦の力を借りるイメージだ。

 

去年の年末に、2022年の抱負について話す機会があった。わたしは「やろうと思ったことをやれるようになりたい」というようなことを言ったのだけど、それはなにか具体的なやりたいことをぼやかしているのではなくて、やりたいことを実現できるための仕組みを考えて動かして、やりたいことを実現できる人間になりたいということなのだ。

(3XX)49週のふりかえり

職場で今の部署に着任してからほどなく懸案だった案件が、ようやく大きな山を超える。先週からひたすら頭の整理を行い、それを全部言葉に吐き出したら、ワード6枚になり、それを読んだ周りの人たちに吐き気を催した。最近は、自分のことを「ことばお化け」と呼んでいる。さらに3日考えて、図に示してみたら、前回ほとんど何も言わなかった人が反応してくれるようになった。自分の伝えたいことは変わらないけど、ようやく伝わった感じがした。こういう、翻訳がいかに人との関わりを接着しているかについて、気になっている。

オンライン忘年会をやってみたくて、先達に相談しながら案内文を送る。全然集まらなさそうで怖い。怖いというか、へこむ。Zoomの有料会員を申し込んだけど、自分を含めて2人しか来なくて有料会員の意味がなくなりそう。この、空回ってるのがわかっているのにそこに向けて動いてしまう感じ。穴に吸い込まれていく。まあでも、それはそれでいい。

Trelloでタスク管理を初めてはや1か月くらい経つ。まだうまく収まっていない感じはするが、管理まで行かずとも、可視化はできつつある。毎日やりたい「ベッドで寝る」と「糸ようじ」、毎週やりたい「洗面所掃除」と「リビング掃除」のチェックをつけていく。「家事のきほん」を読み進めたくて、毎日風呂に持ち込むのだけど、風呂に入るときはだいたい眠すぎて読めずに終わる。読みだしたら面白くて目が覚めるのだろうけど、そうはいかない。入浴時間が長すぎることに気づいたので、入浴時にストップウォッチをつけることにする。

週末に子と会うため、普段は滅多にしなくなった自炊をして、弁当を作ってみる。こないだまでは、ひたすら春巻きを作っていた。今週は、サンドイッチに挑戦してみた。これは鉄板だろうと思っていた具材が嫌いだったりする。こちらで行き先のネタを仕込んではいくものの、そのとおりになることもあれば、想像もしなかった流れになることもある。公園も図書館も行かずに散歩をすることになったら、ショッピングモールでクリスマスのイベントに遭遇する。商店街を抜けて小さな公園に着き、1畳のレジャーシートで弁当を広げる。100均で買い出したものを使って家で工作をしたり、作って食べられるお菓子の手助けがほとんどいらなくなったりしている。

(3XX)ふりこローグ

今日は11月25日なので、前に10月25日の日付の記事を10月28日に書いてから約1か月が経ってしまった。毎週更新から毎日更新にしようとして、却って更新頻度が落ちるようなことが起きている。そういうことはよくある。
私がブログを書くときの、小さなこだわりがある。それは、記事の日付が逆転しないようにすることだ。それに従うと、ちょっと前に書きたいことがあって、最近書きたいことがあると、まずはちょっと前のことを書いてから、最近のことを書く必要がある。だけど、それがよくない。
ルールが現象をきれいにするのは間違いない。だけど、現象を豊かにするか、乏しくするかは、ルールとそれを使う人次第で変わる。この私の小さなこだわりは、どうやら更新頻度を下げることに寄与していて、そしてそれは私にとってざんねんなことだと気づいた。
時間が経ったことを思い出すのはちょっと大変だ。ましてや私は「グレート・忘れっぽい」の属性を持っているので、かなり大変だ。結局思い出せないこと、おぼろげすぎること、思い出した中身が間違いすぎていること、どれも日常茶飯事だ。それでも、思い出すことをして、自分の経験に再び触れることはとても楽しいし、学びがある。
私がものを思い出そうとするときのプロセス、流れは、まずは近くの過去のことから思い出す。やりやすいところから手をつけるのだ。そうやって、私の中の「思い出し筋」があったまってくると、もうちょっと前のことも思い出しやすくなってくる。記憶というのは連想の網目の中にあるので、先に思い出したものがあるほど、いろんなことを思い出しやすい。そうやって、時系列をさかのぼっていく。ある日のことに意識を向けても、真っ白のイメージしか浮かばないことも多いけど、その日の断片的なメモを見返すと、そうだそうだ、あれやったわ、なんで忘れてたんだろう、といったように、記憶が蘇る。

BLEACH モノクロ版 36 (ジャンプコミックスDIGITAL)

そんな頭のはたらきに沿って、時系列の順番を気にせず更新することにする。題名の通し番号はXXXにしておいて、もう遡らないだろうなと思ったら番号を入れていく。最終的に、やっぱり1週間ごとくらいに何かを書けたらいいと思っている。