(29)とっちらかりと棚卸し

生きていると、なにかととっちらかっていく。

 

すべてがそうなるわけでもない。

自分のコントロール下に置ける、楽勝の作業であれば、

それをしても、別にとっちらかったりしない。

冷凍庫からパン2枚取り出してレンジの皿を抜いて焼くとか、

早く帰った翌日に溜まったメールをフォルダに振り分けるとか、

ルーティンになっているものがそう。

 

新しいこと、難しいこと、不確定なことは、とっちらかる。

物理的にも、精神的にも。

終わると流してしまうものもあるが、

というか、そうやって少しでも歯止めをかけようとしてるんだろうが、

それも含めて、とっちらかっていく。

慌てていたり、疲れていると、普段なら大したことないことでもとっちらかる。

(そして悪循環になる)

 

棚卸しというものは、書類の棚卸しや、情報の棚卸しは、

そうやってとっちらかってきたものをあとから取り扱う、大切な過程だ。

近いものはまとめて、順番に並べて、ダブってるものは捨てて、見出しをつけて。

途中段階のバージョンは捨てていいものも、取っておいた方がいいものもある。

紙の書類はあまり残したくないので、スキャンして捨てたりする。

積み残しになってたことに気づいたり、あとで知ったことと結びついたりする。

 

いつか棚卸しをするために、とっちらかったりものを取っておけるといい。

わたしにとっては、そのやり方がいい。

わたしは記憶が悪いから、とかくやたらと書類を取って置きたがる。

そのことは、傍からはあまりよく見られず、時には正面から非難されたりする。

 

棚卸しは一度で終わることが多いが、時を置いて、二度三度とやることも意味がある。

それは、棚卸しが、そこにある物理的なものと、自分との擦り合わせだからだ。

自分が変われば、見えるものが変わる。

見えるものが変わることで、自分が変わったことに気づけたりする。

 

とっちらからないほうが、きっといいんだろうけど、 

とっちらかったあとの棚卸しの時間は、わたしにとって大切なプロセスなのです。