比較することの甘い罠

たまに、主張したいことの比較刺激として、かつて影響力があったとされるものを引きあいに出すような構成に出会う。

・昔は○○というやり方が主流だったが、△△という限界があったため、××というやり方が開発された。

・○○に対しては、△△という介入を行うことが多いが、それは××という問題があるので、□□という介入を行うのがいい。

・○○のような場面で、△△だったら××と主張しているところだが、それは□□なので、☆☆とする方がいい。

悪者を作ったほうが、コントラストが出て、わかりやすくなるのは、わかる。
だけど、そのわかりやすさは、要るのか?

引きあいに出されたものは、今も実在するものなのか?

引きあいに出されたものは、それが生まれた当時のものからずっと変わらないままであったわけではなくて、その看板の中でもよりよいものにしようと、試行錯誤していた人もいたかもしれない。
その変遷を綺麗に無視して、オリジナル版を引きあいに出すようなこと、あるいはそもそもステレオタイプベースの話でしかなくて、自分の見聞きしたいくつかの例を一般化しているようなことも、あるのではないか。

それ自体を論じるための引用ではなく、引きあいに出すためだから、それの真実性などあまり気にしていないように見える態度や、引きあいに出されたものにコミットしている人がいるであろうことを考えると、なんだか気に入らない。