(08)玉ねぎの皮をむく話
批判されるものと擁護されるものは何が違うんだろう。
どちらもだれかの感情や価値観を刺激している。
それが存在することが許せないものと、それが批判されることが許せないもの。
当事者性。
理屈ってのは、自分でなくても構わない。
理屈じゃないものは、私の独自性を形づくっている。
理屈への関わりかたもまた、私だ。
理屈を無視するのも、理屈に重きを置くのも、私だ。
その独自性ですら、実は無限の偶然の理屈からできている。
理屈じゃないと思っていたものが、理屈と偶然に因数分解されてしまう。
それは私が分解されてしまうようなものだ。
それでも、マトリョーシカのように、どんどん分解されていっても、私というものは存在する。
仄かに煌めくものがある。
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(07)化粧やネクタイがつらい話
化粧しんどい人はどうにかノー化粧でも許される地位を勝ち取れないものか……。僕も以前の職場(学校)でなんとかノーネクタイの地位を得たく、クールビズの流れからそのままネクタイをしないキャラで生き抜こうと決意していたが「◯日まではノーネクタイでオッケーです」と公式に通達が来た。つまり→
— ジャッキーさん(夜学バ ー) (@tkom_Jacky) 2019年2月25日
エンジニア界隈とか、ノー化粧でも許される職場はあると聞くけど、許されない職場で能力も人格も認められてる人が化粧をノーすると何が失われるのか。身だしなみの問題とすると、無精髭や寝癖やシャツはみ出てるのと同類?私は基本的に人の顔をちゃんと見ないので、化粧の有無が判別できない。 https://t.co/WEa6wSlNS5
— 遠藤さと (@pluterbulter) 2019年2月25日
多くの人が、多くの人が、やろうと思えばやれると思っていることに、やるといいというよりやらねばならぬと規範をこめて、当たり前にして、例外的に例外を認めて、例外には当てはまらないけどそれに精神的コストがかかる人たちがきゅうくつになる。この社会はしばしばそういう粒の揃えかたをする。
— 遠藤さと (@pluterbulter) 2019年2月25日
自分を例外の一類型に追加することができる場合もあり、それで楽になる場合もあり、その副作用をこうむることもある。社会を変えようすると絶望的なきもちがするが、それがうまく行った例もある。しかし自分の思い通りに社会が変わることがいいことなのか。反転したときのことを考えるとうっとなる。
— 遠藤さと (@pluterbulter) 2019年2月25日
個人的なアプローチは、化粧部族のコスプレや最低限の関心を備えつつ、自分のその苦手さを深掘りして言語化していく。他の現象を説明したり、意外な対処法を発明していく。そういう見えるものが増えてくると、空気に頼らない共感的理解が他者に発動しだす。自分の見せ方もうまくなっていく。
— 遠藤さと (@pluterbulter) 2019年2月25日
感覚過敏によるのか、呼吸が苦しくなるのか、不器用だからなのか、自分を偽ってるように思えるのか、価値を見出せないことに手間をかけるのが苦痛なのか、今の自分にあったやり方が見つからないのか、化粧をする人に嫌なイメージがあるのか、等々。人に言わずとも自分で知っておくとなにかと便利。
— 遠藤さと (@pluterbulter) 2019年2月25日
(06)障害受容という言葉
野口晃菜さんという、特別支援教育の専門家がいる。
株式会社LITALICOの役員を務めながら、その他にもさまざまな場で活動していて、
すこし前からnoteでも情報発信をしている。
私は、彼女の情報発信を楽しみにしている読者のひとりなのだが、
去年の夏ごろにnoteに投稿された記事で、最近またコメントされているものが、どうにも引っかかっている。
短い文章なので、まずは読んでもらえたらと思うが、私がこの記事の内容として理解したのは、
障害者支援の現場(子どもであっても大人であっても)で使われている「障害受容」という言葉に対する問題提起だ。
この言葉は、私の理解では、自分に障害と呼ばれる、身体的・精神的な人との違いで、永久または長期間継続するものが存在することを、自分ものとして受け入れるということを指すと思うのだが、
この記事では、その言葉がある価値観や方法論をも表している印象を与えるという。
その言葉は、まるで「障害」を「受け入れる」ことのみが善であること、そして「受け入れ」ていないことはその人が悪いかのような、そして「受け入れ」ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。
私は、障害受容をそういう意味で使っている人がいるという事実には同感だ。
そして、そのような使い方が問題、つまり本人の支援になっていなかったり、支援者として不適切な場合が往々にしてあるとも思っている。
ただ、それをもって、「障害受容」という言葉自体を否定するのは、飛躍があるように感じる。
障害受容の効果と限界を知った上で、目の前の人にとって何が一番助けになるかを模索している人や、たとえ本人が受け入れることを否定したとしても、専門家として障害受容に向けたアプローチを取ることが自分にとって最善の手だと判断することもある。
確かに、言葉の持つ力はとても強い。
あたらしく作られた言葉が、人々が世の中を見るための構えを提供し、特定の価値観を誘導することもあるだろう。
だから、政治の世界で、同じ現象に対して、与野党で異なる呼び方をするようなことがあるのだろう。
差別用語を使わないようにしようというのは、差別用語が含意する価値観が、ある人たちの人権を侵害する、認められないものだからだ。
別の極端な例をあげると、「障害」という言葉が存在すること自体がよくないと考える人もいる。
(このことについても、思うことはあるけれど、それはまた別の機会に。)
ここまで書いておいてなんだが、この記事が「障害受容」という言葉を否定までしているかは、なんとも言えないと思っている。
文字で書かれているのは、「障害受容という言葉の身勝手さ」「障害受容に関する研究が嫌い」ということだ。
先に書いたような、迷いながらも障害受容というアプローチと向き合っている人がいることも、野口さんは承知済みでこれを書いているのではないかと思う。
ある人にとってはこの記事を読んで、自分が普段から思っていることを言語化されたようですっきりするだろうし、私にとっては引っかかりが浮かび上がるきっかけになった。
よい記事だと思っているが、私は野口さんがいうような批判すべき障害受容の使いかたと、価値を認めるべき、あるいは中立的な障害受容の使いかたを区別する言葉がないかなと思っている。
(2/23 名前が間違っていたのを修正しました。)
(05)春の風
雨が降る日に意外と寒くないなと思ったら、だいぶ春が近づいてきている。
こういうじわじわとした変化は、人や社会の中にもあって、
その価値の割に数値化を諦められがちだと思うけど、
感性を開いたり、確率論で捉えたりすれば、やれることもあるんじゃないかと思っている。
私がワナビーのサイコロジストは、そういう黄金の指標を泥の中から掘り出して、
みんなが使えるように整える機能を果たす。
人事異動の噂もちらほら、
前倒しで遠くに行ったり、あるいは退職する人のはなしを聞く。
わたしはわたしでじっくり考えることが必要だが、人のはなしも聞いてみたい。
そういう取り組みを、ていねいに始めてみようと思っている。
3月の休日に、去年うちの職場を去ったひととお茶をする。
キャリアのトランジット。続ける選択にも深みを込めたい。
外から見てわかる必要なんかないけど、わかる人とは分かち合いたい。
(03)罪悪感
有休を取って平日の昼間に予定を入れたり、平日の夜に予定を入れて定時で上がったりすることをしばしばしている。
一時期は考えられなかったことだ。
仕事が溜まっているのに、隣の同僚が残っているのにさっさと帰ることにためらいはあるが、それをふりきって出てきている。
時には本当にやばくて、全然出られずにキャンセルになってしまうこともある。
予定は何かを学ぶものが多いが、人と会う飲み会だったり、健康や家族に関すること、純粋な楽しみに関することもある。
セミナーの内容がつまらなかったりすると、これなら仕事してた方がよかったなと思うこともあるっちゃある。
それは精度を上げていきたいと思うが、そういうこともあると割り切っている。
なにかの目的を達成しようとしたり、なにかのバランスを取ろうとしているときに、異なるいくつかの方法がある。
それぞれの方法には異なる観点からのメリット・デメリットがあって、人によって立場によって望ましさが異なる。そのため、あるやり方を許容するか禁じ手とするか、どのやり方を優先するかが異なってくる。
残業をどこまで選択肢に含むかは、人によって異なる。担当する職務や、所属する組織の文化によって異なる。
この組織で働くことは、どれだけ残業を、つまりアフター6の時間の投資を求められることなのか。
私にとって、アフター6の時間はどのように使うことができて、どんな意味があるのか。裏返すと、残業によってどんな機会を逸することになるのか。
ちょっと長いスパンで、そんなことを体験しながら考えることをしたいと思っている。
(02)AsianPLoP 2019
自分にとって切実なものを、心が動くものについて、言葉に乗せることを目指している。
パターン・ランゲージという、物事の秘訣をまとめる方法論があり、それを持ち寄って話し合う、学会のような発表会のような催しが3月に行われる。
いま、そこで発表しようとしている論文(というよりは、作文に近いのだけど)について、アドバイスを受けながら、完成度を高めているところ。
限定されたコミュニケーションの場の中で、どれだけ豊かなものを交換し、アウトプットに反映できるかという、チャレンジだと思っている。
人が人を支援すること、支援されること、働くこと、障害を抱えて生きること、について、接近していきたい。