(15)ディスる

あること/ひとに対し、個人としてネガティブな感情を表明する。(私はあれが嫌いだ)

あること/ひとに対し、個人としてネガティブな価値判断をする。(私はあれがダメだと思う)

あることを行ったひとに対し、そのことの撤回・補償を求める。(あやまれ)

コントロールする立場のひとに対し、あることへの処分を求める。(中止しろ)

コントロールする立場のひとに対し、あることを行ったひと/あるひとへの処分を求める。(しばけ)

 

あることを行ったひと/あるひとに対し、直接ネガティブな行為をする。(石をぶつける)

あることを行ったひと/あるひとに対し、直接ネガティブな感情・評価を表明する。

(あなたのあれが嫌いだ/ダメだ、あなたが嫌いだ/ダメだ)

 

あること/ひとに対する自分のネガティブな感情・評価に同意を求める。

(みんなもあれが嫌いでしょう?ダメだと思うでしょう?)

あること/ひとに対するネガティブな感情・評価を一般化する。

(みんなあれが嫌いだ、あれは普遍的にダメだ)

あること/ひとに対し、疑問を提起する。

(あれはどうなんだろう?)

 

あることを行ったひと/あるひとの関係者に対し、ネガティブな評価を表明する。

(あれがああなったのは関係者のせいだ)

あることを行ったひとの関係者に対し、そのことの補償を求める。

(関係者が責任を取れ)

 

あることを行ったひと/あるひとが関わるものごとに対し、ネガティブな行為をする。

(CDを割る、不買運動

規制をする立場のひとに対し、あることを行ったひと/あるひとが関わるものごとへの処分を求める。

(回収しろ)

あることを行ったひと/あるひとと同じ属性の人全体に対し、ネガティブな感情・評価を表明する。

(◯◯なやつは嫌いだ/ダメだ)

 

概念と物理のことを考えている。

似ているが異なる概念は、一緒くたになりやすい。

まとまってるほうが負荷が低いし、似ているものを区別できない人もいるからだ。

それでも、分けたほうがいいこともある。

似ているが異なる物理は、埋もれるか、隔離されやすい。

極端などちらかに振り切れやすい。

埋もれずに、一緒にいるのはちょっとしたコツがいる。

それでも、そうしたほうがいいこともある。

 

 

 

 

(14)多様性について

月曜のdiversity drinks、LGBT×障害の回に行きたかったが行けなかった

から、というわけでもないのだけど、

ダイバーシティーとかインクルージョンという言葉が気になっている。

 

これはもう同床に異夢に異夢に異夢を重ねるものだと思っていて、

このふたつの英単語も、ほとんど同じような意味で捉えている人、

第1段階と第2段階と捉えている人、両輪と捉えている人、

とにかく共有してるようで3Dメガネのようにずれまくっている。

 

多様性とは認めあうことではなく、干渉しないことだ、

という言葉を取り上げたツイートを見かけた。

私が思うのは、多様性は認めあうことで、干渉しないことだ。

逆に、どちらかがなかったら多様性なんて成立しえないと思う。

誰かにとって図と地なものが、別の誰かには地と図になる。

同じ人でもある瞬間、あるいはゆるやかに、図と地と地と図は入れ替わる。

5分5分がちょうどいい人もいれば、8割認めたい人も、99.7%人と関わりたくない人もいる。

 

おのおのが、おのおのの丁度良さを実現すべく、実践できる、

それが多様性の土壌なんじゃあるまいか。

 

ただ、思うのは、全体としてはそういう、ブレンドされたものがよくっても、

言論の世界だとそういうものはパンチがない。

極端なくらいエッジが効いた、ツンッツンッにトンがった主張こそが、

沢山のいいねを集めたり、アンチとの議論を呼び起こしたり、

つまりコミュニケーションを生み出し、社会システムを維持する。

その中で発信者は差別化され、役割を果たし、価値を稼ぐ。

 

言うこととやることは、正解が異なる。

異なるものに同じ回答を重ねるのは、

マークシートを全部同じ数字で埋めるようなもんだ。

 

誰もが自分なりのダイバーシティを求め、そして秩序をも求めている。

誰かのダイバーシティと誰かの秩序はバッティングしうる。

許されないダイバーシティとか、許されない秩序とかが言われるが、

それは壮絶な闘いの中で獲得されるものなのだ。

たとえそれがえ空気のように永続すると思えても、

いつ根こそぎひっくり返されるかはわからないのだ。

 

(13)中卒労働者から始める高卒生活

マンガが無料で読めるアプリというものを使っている。

(有料で読む機能もあるが、それは使っていない)

 

ときどき、すごい面白い作品に出会う。

これはお金出して買わなきゃなというもの。

むかし、バトル・ロワイヤルという分厚い小説を、

本屋で数時間立ち読みして、その挙句買ったことがあった。

そんな作品に出会うことがときどきある。

 

マンガに限らず、すてきな作品や、すてきな人と出会ったとき、

その体験を自分の中できちんと結晶化したり、

あまつさえそのすてきさを人に伝えられるような言葉を生みたいと思っている。

わたしの言葉とのつきあい方の、ひとつの目指すあり方だ。

そして、それはいま、前者はまあまあできているが、

後者はほとんどできていない。

 

「中卒労働者から始める高卒生活」というマンガがある。

メディアミックスとかされたんだろうか。なんかちょいちょい目にする。

育て上げネットの工藤さんが紹介しているのをSNSで見たこともある。

ときどきすごく本質的なせりふが出てきて、はっとさせられるのだ。

 

だいたい作中で誰かがはっとさせられているのだが、一緒になってはっとする。

生きているとときどき出会う、これまでも出会ってきた、

なんともいえないでもやもやとしていたものを、この作品の登場人物は

不意にふっと掬って言葉で表す。

とっても素朴な言葉でそのまるごとを拾う。

 

そうそう!そうなんだ!って、言いたくなる。

ひとりでマンガを見ながら口に出すのは怪しいので、

そのかわりにニヤニヤする。

ニヤニヤしているのも十分怪しい。

 

それに、はっとしたときの登場人物の表情がとてもいいんだ。

これはもう、いいとしか言えない。

 

具体例がぱっと思いつかないのが残念なところだけど、

改めてコミックスを購入して、

(紙だと置き場に困るので、電子を)

お気に入りのセリフに電子ふせんをはさむのだ。

というのが、近い未来でやりたいこと。

 

 

 

(12)人を助けるとはどういうことか?

タイトルは、エドガー・シャインという人が書いた本の邦題。すごくいい。

私は個人として、ある家族に対し、どうしたら彼の助けになれるかということを、特に今年に入ってから考えているし、

別の家族に対しては、彼女が求めること(そしておそらく彼女の助けになるであろうこと)と、私が求めることがバッティングして、ジレンマが生じている。

個人的に追っているテーマである障害者就労支援に通底するものとして、人を支援するということがあるし、ASDという発達障害が人との関わりにもたらす影響が、支援行為をどう揺るがすのかに興味がある。

私の仕事はマス的に人を助けるということに関わっている。そして職場の中では、日々いろんな人から助けられ、そして助ける機会があるが、うまくやれたと思うこともあれば、とんでもないこともある。

 

このテーマを核にして、今年の私はどこまで構築できるだろうか。

知を結晶化し、行為に落とし込めるだろうか。

 

(02)AsianPLoP 2019 - LoS (Locus of Scent *2)

(11)自転車はすごい

今の家に越してから、電化製品が軒並みというか立て続けに不調なのだが、

自転車は駅前でチューブ替えてもらってから調子がいい。

前は何度か乗るごとに空気が抜けてしまっていたのだが、そんなこともなく、今日は両隣駅を行き来して、100均と本屋とケーキ屋とパン屋を回るのにのに一役買ってくれた。

間接的には新幹線の発明のほうが社会を豊かにしているのかもしれないが、感覚的には断然自転車だ。

わたしは自分の人生をもっと豊かにするために、自転車のこともっと知って、もっとうまく自転車とつきあえるようになりたいと思っている。

そんな小学生みたいなことを改めて考えている。

 

(10)疲労ポエム

仕事がぱつんぱつんになってきている。

生産性を切り売りしながら成果物の総量を稼ぐのは、やりたかないけどやらざるをえない。

怒りを撒き散らす人がいると、さらに重りが増えていく。

 

こういうときは、小さな小さな黄金を大事にして、そこから少しずつ育てていくのが常套手段。

 

睡眠はどうしても足りなくなってしまうけど、

暖めること、伸ばすこと。

人に親切にして、ポジティブな感情を交換すること。

空きがないようなところにも、楽しい用事をえいやとつっこむこと。

なるべくならば、にがいものを引きずらず、別のものに注意を向けること。

 

一発で切り替えるみたいなことはできないから、すこしずつ、すこしずつ。

リトルテップ、という言葉は、Little + Stepのことで、スモールステップと意味は変わらない。

Rebitも似たようなところから来てるような気がするけど、

わたしの感覚だと、繰り返すってのはちょっと違って、

もっと新しいところを静かに切り開いて育っていく感じ。

育て上げネットの「上げ」がない、ただ育つ。

育てるでもなく、育つ。そんな距離感。

Future Trackにはそんなイメージを籠めている。

(09)抽象と具体

抽象的か、具体的か、ということは、コミュニケーションの文脈で、とても重要な概念だと思っている。

特に、面白くて悩ましいのは、ある言葉や芸術作品に対し、「抽象的」という言葉が使われるとき、

一見、表現物の属性について言っているようで、

実際には、ある表現を受け取った者の「よくわからない」という感覚を言っている場合も、少なくないように思われることだ。

 

ある人(発し手)がなんらかの表現をして、

別のある人(受け手)がそれを受け取り、

多くの場合は、意味の理解や感情など、なんらかの反応が起きる。

 

ところが、特に反応が起きなかったり、もやもやと漠然とした感覚のみが起きたり、

「あれのことなのか、それとも別のあれのことなのか」と、複数の受け取り方が頭を巡ったりした場合、

それらの反応は、「よくわからない」という言葉でしばしば表現される。

だけど、「よくわからない」という反応を外に出すことをよしとしない人や、よしとしない場面があるため、

別の言葉に言い換えようとして、「この表現は抽象的だ」と言ったり、「もっと具体的にした方がいい」というアドバイスを言ったりする。

もちろん、これとは違う意味で、たとえば本来的な意味で「抽象的だ」と言う人もいる。

 

抽象的だと受け手から言われるような表現について、

発し手の方はどう捉えているのだろうか。

本当は具体的にしたいけれど、よい表現が見つからず、やむなく抽象的にしたのだろうか。

それとも、なんらかの意図があって、あえて抽象的な表現を目指し、それを実現したのだろうか。

あるいは、発し手としては抽象的だとは思ってなくて、むしろ具体的だと思っているのだろうか。

 

抽象的/具体的という言葉は、形容詞だ。

大きい/小さいとか、きれい/きたないといったものと同じ、

ものごとが持っているある属性を浮かび上がらせるとともに、

その程度についても言及しうる言葉だ。

そして、その言葉が使われるときには、

個人の主観的体験からものごとの客観的属性まで、

単なる現状認識から価値判断、さらには改善の示唆にまで使われる。

文脈によって、個人によって、使われ方はけっこう異なるため、

この言葉でコミュニケーションを取るにはけっこう難易度が高い。

特に、互いのことを理解していない人同士では、ズレが起きやすい。

もし、ズレの少ないコミュニケーションを取りたいと思っている人がこの言葉を使うなら、

ズレが起きやすい言葉だということを胸に置いておくことや、

ズレが起きてないかをチェックし、ズレを解消するための工夫を行うことが重要になる。

 

私は、この言葉をうまく使えるようになりたい。