(17)抵抗

未来を予想する一番の方法は、自ら創造することだ、

という言葉がある。

あるひとがこの言葉を気に入っていて、わたしは直接知っているわけではないが、

それでもいい言葉だと思う。

学習性無力感の反対、自己効力感を支えるマインドセットだと思う。

 

ただし、どんなものでもバランスが大事で、

よいものでもやりすぎると害が出てくることがある。

複雑なのは、誰かにとっての害が、別の誰かにとっては益となることだ。

 

創造、という言葉にどれだけの意味を担わせるかは、

数年来悶々としているテーマだ。

いまだに、この言葉とのうまい距離を見つけることができていない。

 

気になっているのは、未来というものは、まったくの白紙ではなく、

どんな未来でも、過去を生きた人がおり、過去の積み重ねがある。

歴史が苦手なわたしにだって、それくらいわかる。

そのとき初めて出会った人と関わるとき、

その人がこれまでに歩んだ人生のことを想像する必要がある場合がある。

 

しかし、普遍の物理法則が新たに発見されるように、

過去の歴史もまた、新たに発見されたり、修正されたりする。

 

なにか価値のあることをやっている人たちは、

その価値を台無しにしようとする力に対し、抵抗しなければならない。

生存しようとする人が、自分を殺そうとする人から抵抗するように。

人が怒るのも、つまるところそういう、自分の大切なものが脅かされるときなのかもしれない。

 

大切なものは、目に見えないこともある。

それが大切なのだと、わかりにくいこともある。

失って初めて気づくこともある。とりかえしのつかないこともある。

 

いろいろなことがつながって、浮遊している。

 

(16)支援者

 

誰かを支援しようとしたとき、

ぱっと見と同じような問題でも、正解は異なりうる。

支援者の立場からすると、こういうときに取りうるいくつかの選択肢の中から、

どれをベースにするか、そしてどうチューニングして実行するかという課題がある。

 

一般的には、どんな問題でも解決するような解決策などはなくて、

個々の状況に応じて正解は異なる。

だから、問題解決の前段には、よく話を聞いたり調べたりして、

これがどんな状況・問題であるかを特定した上で、解決策を特定する、

あるいはアタリをつけて、そこでやっと解決策の実行に進む。

 

この前段と後段の過程は混じることもある。

大まかな情報を把握した時点で当面実行する解決策を決定し、

その効果を見ながら、状況・問題把握を深めるような場合だ。

 

個々の解決策には効果と副作用があるから、

ある程度効果があるだろうと思える解決策であっても、

副作用の影響が心配な場合、実行を避けたり、副作用を減らす工夫と併せて行う。

 

適切に使えば効果のある解決策でも、使う場面を間違えると、

効果が出なかったり、害を及ぼしたりする。

だから、支援のしかたを検討するとき、状況・問題と解決策とがマッチしているか、

という観点はとても重要だ。

前に似たような事例でうまく行った体験があったり、

似たような事例でうまく行った話を誰かから聞いたことがあると、

同様の解決策が今回も役立つのでは、と思うが、

実は早とちりだったりする。

ミスマッチも、おおもとの方向性から間違っていることもあれば、

ちょっとしたチューニングが合ってないような場合もある。

 

ミスマッチ以外の部分で、ある支援が批判されることもある。

たとえば、ある方法は、どんな状況であっても選ぶべきでないとされる。

多くの場合に害をなしたり、その害が致命的だったりする場合、

たとえわずかな事例で役立つことがあっても、選ぶべきではないとされる。

あるいは、その方法に通底する理念が極めて認めがたいような場合。

 

それから、目指すべき目的が批判されることもある。

その場合、たとえ目的を達成したとしても、よくないとされる。

 

批判の対象である「わるさ」をどこに帰属するかということも、いくつかの観点がある。

個人に帰属する場合と、環境に帰属する場合。

環境というのも幅があって、単にきっかけとなる刺激を指すこともあれば、

反復して同じような問題を生じさせるしくみ、構造を指すこともある。

個人といっても、行為を行った者、行為を受けた者、管理監督者、周囲の者など、

いろいろな捉え方がある。

 

パターン・ランゲージが捉える「よさ」と「わるさ」。

 

(15)ディスる - LoS (Locus of Scent *2)

(12)人を助けるとはどういうことか? - LoS (Locus of Scent *2)

 

 

(15)ディスる

あること/ひとに対し、個人としてネガティブな感情を表明する。(私はあれが嫌いだ)

あること/ひとに対し、個人としてネガティブな価値判断をする。(私はあれがダメだと思う)

あることを行ったひとに対し、そのことの撤回・補償を求める。(あやまれ)

コントロールする立場のひとに対し、あることへの処分を求める。(中止しろ)

コントロールする立場のひとに対し、あることを行ったひと/あるひとへの処分を求める。(しばけ)

 

あることを行ったひと/あるひとに対し、直接ネガティブな行為をする。(石をぶつける)

あることを行ったひと/あるひとに対し、直接ネガティブな感情・評価を表明する。

(あなたのあれが嫌いだ/ダメだ、あなたが嫌いだ/ダメだ)

 

あること/ひとに対する自分のネガティブな感情・評価に同意を求める。

(みんなもあれが嫌いでしょう?ダメだと思うでしょう?)

あること/ひとに対するネガティブな感情・評価を一般化する。

(みんなあれが嫌いだ、あれは普遍的にダメだ)

あること/ひとに対し、疑問を提起する。

(あれはどうなんだろう?)

 

あることを行ったひと/あるひとの関係者に対し、ネガティブな評価を表明する。

(あれがああなったのは関係者のせいだ)

あることを行ったひとの関係者に対し、そのことの補償を求める。

(関係者が責任を取れ)

 

あることを行ったひと/あるひとが関わるものごとに対し、ネガティブな行為をする。

(CDを割る、不買運動

規制をする立場のひとに対し、あることを行ったひと/あるひとが関わるものごとへの処分を求める。

(回収しろ)

あることを行ったひと/あるひとと同じ属性の人全体に対し、ネガティブな感情・評価を表明する。

(◯◯なやつは嫌いだ/ダメだ)

 

概念と物理のことを考えている。

似ているが異なる概念は、一緒くたになりやすい。

まとまってるほうが負荷が低いし、似ているものを区別できない人もいるからだ。

それでも、分けたほうがいいこともある。

似ているが異なる物理は、埋もれるか、隔離されやすい。

極端などちらかに振り切れやすい。

埋もれずに、一緒にいるのはちょっとしたコツがいる。

それでも、そうしたほうがいいこともある。

 

 

 

 

(14)多様性について

月曜のdiversity drinks、LGBT×障害の回に行きたかったが行けなかった

から、というわけでもないのだけど、

ダイバーシティーとかインクルージョンという言葉が気になっている。

 

これはもう同床に異夢に異夢に異夢を重ねるものだと思っていて、

このふたつの英単語も、ほとんど同じような意味で捉えている人、

第1段階と第2段階と捉えている人、両輪と捉えている人、

とにかく共有してるようで3Dメガネのようにずれまくっている。

 

多様性とは認めあうことではなく、干渉しないことだ、

という言葉を取り上げたツイートを見かけた。

私が思うのは、多様性は認めあうことで、干渉しないことだ。

逆に、どちらかがなかったら多様性なんて成立しえないと思う。

誰かにとって図と地なものが、別の誰かには地と図になる。

同じ人でもある瞬間、あるいはゆるやかに、図と地と地と図は入れ替わる。

5分5分がちょうどいい人もいれば、8割認めたい人も、99.7%人と関わりたくない人もいる。

 

おのおのが、おのおのの丁度良さを実現すべく、実践できる、

それが多様性の土壌なんじゃあるまいか。

 

ただ、思うのは、全体としてはそういう、ブレンドされたものがよくっても、

言論の世界だとそういうものはパンチがない。

極端なくらいエッジが効いた、ツンッツンッにトンがった主張こそが、

沢山のいいねを集めたり、アンチとの議論を呼び起こしたり、

つまりコミュニケーションを生み出し、社会システムを維持する。

その中で発信者は差別化され、役割を果たし、価値を稼ぐ。

 

言うこととやることは、正解が異なる。

異なるものに同じ回答を重ねるのは、

マークシートを全部同じ数字で埋めるようなもんだ。

 

誰もが自分なりのダイバーシティを求め、そして秩序をも求めている。

誰かのダイバーシティと誰かの秩序はバッティングしうる。

許されないダイバーシティとか、許されない秩序とかが言われるが、

それは壮絶な闘いの中で獲得されるものなのだ。

たとえそれがえ空気のように永続すると思えても、

いつ根こそぎひっくり返されるかはわからないのだ。

 

(13)中卒労働者から始める高卒生活

マンガが無料で読めるアプリというものを使っている。

(有料で読む機能もあるが、それは使っていない)

 

ときどき、すごい面白い作品に出会う。

これはお金出して買わなきゃなというもの。

むかし、バトル・ロワイヤルという分厚い小説を、

本屋で数時間立ち読みして、その挙句買ったことがあった。

そんな作品に出会うことがときどきある。

 

マンガに限らず、すてきな作品や、すてきな人と出会ったとき、

その体験を自分の中できちんと結晶化したり、

あまつさえそのすてきさを人に伝えられるような言葉を生みたいと思っている。

わたしの言葉とのつきあい方の、ひとつの目指すあり方だ。

そして、それはいま、前者はまあまあできているが、

後者はほとんどできていない。

 

「中卒労働者から始める高卒生活」というマンガがある。

メディアミックスとかされたんだろうか。なんかちょいちょい目にする。

育て上げネットの工藤さんが紹介しているのをSNSで見たこともある。

ときどきすごく本質的なせりふが出てきて、はっとさせられるのだ。

 

だいたい作中で誰かがはっとさせられているのだが、一緒になってはっとする。

生きているとときどき出会う、これまでも出会ってきた、

なんともいえないでもやもやとしていたものを、この作品の登場人物は

不意にふっと掬って言葉で表す。

とっても素朴な言葉でそのまるごとを拾う。

 

そうそう!そうなんだ!って、言いたくなる。

ひとりでマンガを見ながら口に出すのは怪しいので、

そのかわりにニヤニヤする。

ニヤニヤしているのも十分怪しい。

 

それに、はっとしたときの登場人物の表情がとてもいいんだ。

これはもう、いいとしか言えない。

 

具体例がぱっと思いつかないのが残念なところだけど、

改めてコミックスを購入して、

(紙だと置き場に困るので、電子を)

お気に入りのセリフに電子ふせんをはさむのだ。

というのが、近い未来でやりたいこと。

 

 

 

(12)人を助けるとはどういうことか?

タイトルは、エドガー・シャインという人が書いた本の邦題。すごくいい。

私は個人として、ある家族に対し、どうしたら彼の助けになれるかということを、特に今年に入ってから考えているし、

別の家族に対しては、彼女が求めること(そしておそらく彼女の助けになるであろうこと)と、私が求めることがバッティングして、ジレンマが生じている。

個人的に追っているテーマである障害者就労支援に通底するものとして、人を支援するということがあるし、ASDという発達障害が人との関わりにもたらす影響が、支援行為をどう揺るがすのかに興味がある。

私の仕事はマス的に人を助けるということに関わっている。そして職場の中では、日々いろんな人から助けられ、そして助ける機会があるが、うまくやれたと思うこともあれば、とんでもないこともある。

 

このテーマを核にして、今年の私はどこまで構築できるだろうか。

知を結晶化し、行為に落とし込めるだろうか。

 

(02)AsianPLoP 2019 - LoS (Locus of Scent *2)

(11)自転車はすごい

今の家に越してから、電化製品が軒並みというか立て続けに不調なのだが、

自転車は駅前でチューブ替えてもらってから調子がいい。

前は何度か乗るごとに空気が抜けてしまっていたのだが、そんなこともなく、今日は両隣駅を行き来して、100均と本屋とケーキ屋とパン屋を回るのにのに一役買ってくれた。

間接的には新幹線の発明のほうが社会を豊かにしているのかもしれないが、感覚的には断然自転車だ。

わたしは自分の人生をもっと豊かにするために、自転車のこともっと知って、もっとうまく自転車とつきあえるようになりたいと思っている。

そんな小学生みたいなことを改めて考えている。