(10)疲労ポエム

仕事がぱつんぱつんになってきている。

生産性を切り売りしながら成果物の総量を稼ぐのは、やりたかないけどやらざるをえない。

怒りを撒き散らす人がいると、さらに重りが増えていく。

 

こういうときは、小さな小さな黄金を大事にして、そこから少しずつ育てていくのが常套手段。

 

睡眠はどうしても足りなくなってしまうけど、

暖めること、伸ばすこと。

人に親切にして、ポジティブな感情を交換すること。

空きがないようなところにも、楽しい用事をえいやとつっこむこと。

なるべくならば、にがいものを引きずらず、別のものに注意を向けること。

 

一発で切り替えるみたいなことはできないから、すこしずつ、すこしずつ。

リトルテップ、という言葉は、Little + Stepのことで、スモールステップと意味は変わらない。

Rebitも似たようなところから来てるような気がするけど、

わたしの感覚だと、繰り返すってのはちょっと違って、

もっと新しいところを静かに切り開いて育っていく感じ。

育て上げネットの「上げ」がない、ただ育つ。

育てるでもなく、育つ。そんな距離感。

Future Trackにはそんなイメージを籠めている。

(09)抽象と具体

抽象的か、具体的か、ということは、コミュニケーションの文脈で、とても重要な概念だと思っている。

特に、面白くて悩ましいのは、ある言葉や芸術作品に対し、「抽象的」という言葉が使われるとき、

一見、表現物の属性について言っているようで、

実際には、ある表現を受け取った者の「よくわからない」という感覚を言っている場合も、少なくないように思われることだ。

 

ある人(発し手)がなんらかの表現をして、

別のある人(受け手)がそれを受け取り、

多くの場合は、意味の理解や感情など、なんらかの反応が起きる。

 

ところが、特に反応が起きなかったり、もやもやと漠然とした感覚のみが起きたり、

「あれのことなのか、それとも別のあれのことなのか」と、複数の受け取り方が頭を巡ったりした場合、

それらの反応は、「よくわからない」という言葉でしばしば表現される。

だけど、「よくわからない」という反応を外に出すことをよしとしない人や、よしとしない場面があるため、

別の言葉に言い換えようとして、「この表現は抽象的だ」と言ったり、「もっと具体的にした方がいい」というアドバイスを言ったりする。

もちろん、これとは違う意味で、たとえば本来的な意味で「抽象的だ」と言う人もいる。

 

抽象的だと受け手から言われるような表現について、

発し手の方はどう捉えているのだろうか。

本当は具体的にしたいけれど、よい表現が見つからず、やむなく抽象的にしたのだろうか。

それとも、なんらかの意図があって、あえて抽象的な表現を目指し、それを実現したのだろうか。

あるいは、発し手としては抽象的だとは思ってなくて、むしろ具体的だと思っているのだろうか。

 

抽象的/具体的という言葉は、形容詞だ。

大きい/小さいとか、きれい/きたないといったものと同じ、

ものごとが持っているある属性を浮かび上がらせるとともに、

その程度についても言及しうる言葉だ。

そして、その言葉が使われるときには、

個人の主観的体験からものごとの客観的属性まで、

単なる現状認識から価値判断、さらには改善の示唆にまで使われる。

文脈によって、個人によって、使われ方はけっこう異なるため、

この言葉でコミュニケーションを取るにはけっこう難易度が高い。

特に、互いのことを理解していない人同士では、ズレが起きやすい。

もし、ズレの少ないコミュニケーションを取りたいと思っている人がこの言葉を使うなら、

ズレが起きやすい言葉だということを胸に置いておくことや、

ズレが起きてないかをチェックし、ズレを解消するための工夫を行うことが重要になる。

 

私は、この言葉をうまく使えるようになりたい。

 

 

(08)玉ねぎの皮をむく話

批判されるものと擁護されるものは何が違うんだろう。

どちらもだれかの感情や価値観を刺激している。

それが存在することが許せないものと、それが批判されることが許せないもの。

 

当事者性。

 

理屈ってのは、自分でなくても構わない。

理屈じゃないものは、私の独自性を形づくっている。

理屈への関わりかたもまた、私だ。

理屈を無視するのも、理屈に重きを置くのも、私だ。

 

その独自性ですら、実は無限の偶然の理屈からできている。

理屈じゃないと思っていたものが、理屈と偶然に因数分解されてしまう。

それは私が分解されてしまうようなものだ。

 

それでも、マトリョーシカのように、どんどん分解されていっても、私というものは存在する。

仄かに煌めくものがある。

 

※予約投稿機能を使って朝7時に予約投稿をしてみる。

(07)化粧やネクタイがつらい話

(06)障害受容という言葉

野口晃菜さんという、特別支援教育の専門家がいる。

株式会社LITALICOの役員を務めながら、その他にもさまざまな場で活動していて、

すこし前からnoteでも情報発信をしている。

 

私は、彼女の情報発信を楽しみにしている読者のひとりなのだが、

去年の夏ごろにnoteに投稿された記事で、最近またコメントされているものが、どうにも引っかかっている。

「障害受容」という言葉の身勝手さ|野口晃菜|note

 

短い文章なので、まずは読んでもらえたらと思うが、私がこの記事の内容として理解したのは、

障害者支援の現場(子どもであっても大人であっても)で使われている「障害受容」という言葉に対する問題提起だ。

この言葉は、私の理解では、自分に障害と呼ばれる、身体的・精神的な人との違いで、永久または長期間継続するものが存在することを、自分ものとして受け入れるということを指すと思うのだが、

この記事では、その言葉がある価値観や方法論をも表している印象を与えるという。

 

その言葉は、まるで「障害」を「受け入れる」ことのみが善であること、そして「受け入れ」ていないことはその人が悪いかのような、そして「受け入れ」ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。

 

私は、障害受容をそういう意味で使っている人がいるという事実には同感だ。

そして、そのような使い方が問題、つまり本人の支援になっていなかったり、支援者として不適切な場合が往々にしてあるとも思っている。

ただ、それをもって、「障害受容」という言葉自体を否定するのは、飛躍があるように感じる。

障害受容の効果と限界を知った上で、目の前の人にとって何が一番助けになるかを模索している人や、たとえ本人が受け入れることを否定したとしても、専門家として障害受容に向けたアプローチを取ることが自分にとって最善の手だと判断することもある。

 

確かに、言葉の持つ力はとても強い。

あたらしく作られた言葉が、人々が世の中を見るための構えを提供し、特定の価値観を誘導することもあるだろう。

だから、政治の世界で、同じ現象に対して、与野党で異なる呼び方をするようなことがあるのだろう。

差別用語を使わないようにしようというのは、差別用語が含意する価値観が、ある人たちの人権を侵害する、認められないものだからだ。

別の極端な例をあげると、「障害」という言葉が存在すること自体がよくないと考える人もいる。

(このことについても、思うことはあるけれど、それはまた別の機会に。)

 

ここまで書いておいてなんだが、この記事が「障害受容」という言葉を否定までしているかは、なんとも言えないと思っている。

文字で書かれているのは、「障害受容という言葉の身勝手さ」「障害受容に関する研究が嫌い」ということだ。

先に書いたような、迷いながらも障害受容というアプローチと向き合っている人がいることも、野口さんは承知済みでこれを書いているのではないかと思う。

 

ある人にとってはこの記事を読んで、自分が普段から思っていることを言語化されたようですっきりするだろうし、私にとっては引っかかりが浮かび上がるきっかけになった。

よい記事だと思っているが、私は野口さんがいうような批判すべき障害受容の使いかたと、価値を認めるべき、あるいは中立的な障害受容の使いかたを区別する言葉がないかなと思っている。

(2/23 名前が間違っていたのを修正しました。)

 

(05)春の風

雨が降る日に意外と寒くないなと思ったら、だいぶ春が近づいてきている。

こういうじわじわとした変化は、人や社会の中にもあって、

その価値の割に数値化を諦められがちだと思うけど、

感性を開いたり、確率論で捉えたりすれば、やれることもあるんじゃないかと思っている。

私がワナビーのサイコロジストは、そういう黄金の指標を泥の中から掘り出して、

みんなが使えるように整える機能を果たす。

 

人事異動の噂もちらほら、

前倒しで遠くに行ったり、あるいは退職する人のはなしを聞く。

わたしはわたしでじっくり考えることが必要だが、人のはなしも聞いてみたい。

そういう取り組みを、ていねいに始めてみようと思っている。

3月の休日に、去年うちの職場を去ったひととお茶をする。

キャリアのトランジット。続ける選択にも深みを込めたい。

外から見てわかる必要なんかないけど、わかる人とは分かち合いたい。

(04)精読会

湯島の夜学バーという店で、月1くらい、鈴木先生という漫画の精読会をやっている。

みんなで単行本を持ち寄って、1コマずつ、このセリフがどうこう、この表情は、効果線は、無言のフキダシは、座席はこうだから、スミに映ってるこいつは誰それじゃないか、うんぬん。

番頭のジャッキーさんが時おり、しばしば、解説や雑談を披露しつつ、みんな適当に喋る。

この作品が精読に値するということを、その信念を共有できているというベースがあるからか、名前も知らない人ばかりの中でも居心地のよい空間なのだ。