(48)Language and Life

彼女のことを理解しようとしてみよう。
彼女のことを理解しよう。
彼女のために、何ができるか考えよう。
彼女のために、できることをやってみよう。
(結果がどうなるかは、やってみないとわからない。)

 

私自身のことを、理解しようとしてみよう。
私自身のことを理解しよう。
私自身のために、何ができるか考えよう。
私自身のために、できることをやってみよう。

 

結果を受け止めて、また考えて、また動いていこう。

(47)疎通するもの、人の間に流れるもの

半分仕事、半分趣味で、大阪の職業リハビリテーション学会大会に行ってきた。
http://www.shokuriha-osaka.com/

学会長が精神科医の田川先生ということもあり、精神障害者の就労支援にテーマを置いたものが比較的多かった。
信頼関係を築き、当事者が声を上げやすい環境を作り、出た意見はすぐに対応する。そして、やったことに対し評価することでやりがいにつなげる。やりがいを感じ、サポートがあるから、困難を乗り越えることができる。治療を続けてもゼロにならない障害を抱えつつ、それ以外の人生を豊かにしていき、その人の中で相対的に障害を小さくしていく。

これは、田川先生の基調講演のエッセンスを私なりにまとめたものだが、さまざまな場面に適用できると思う。

そのほか、離島を含む就農支援・農福連携の事例を、当事者から直接発表するようなプログラムや、学校から職業への移行(トランジション)を考える中で、学校文化と職リハ文化の違いという切り口から分析していたプログラムがあり、とてもよい考える種をもらえた。

面白そうな人にも出会えた。これをこれから、仕事やプライベートの中でどう育てていけるか。

 

起きてしまったことはどうしようもない。変えられないものは確かに存在する。
だけど私たちは、自分や周りの人の人生をよりよくするために、なにかすることができると信じたい。
という、月並みな言葉で締める。

 

昨日は家族で、彼の誕生祝いをした。
エドガー・シャインの本を思い出しながら、人を支援することの難しさを考えた。

(46)モリ

仕事とか、育児とか、まったく関係のないことをしていると、ちょっとそのことを忘れていられるが、ひと息ついた途端、溜まっていたかのようにすぐさまあのことが頭を占める。

もしくは、生活の中でなにげないものが、彼やあのことを想起させる。

 

テレビドラマを見ていると、意外と死がありふれていて、そのたびに反応してしまう。
陰のある登場人物の、過去に親しい人を亡くしたエピソードが語られるとか、よくあるパターンだ。
その瞬間、量は増えて、でも一方で、ちょっと薄まるんじゃないかという感じもある。

 

意識をしていると、毒を装備しているように、やたらと消耗する。
意識していないときに、どんな影響があるかはわかりにくいが、食事と睡眠は崩れかけて、あるいは崩れて、立て直そうとしたりする。
そういう身体性で、今は生きている。

 

まさかある日突然当事者になるなんて、思ってもみなかった。
思ってもみなかったことも、悔やまれる。

(45)傷つけるもの

ちょっと前に、「先生の白い嘘」というマンガを読んだ。 

先生の白い嘘 コミック 全8巻セット

先生の白い嘘 コミック 全8巻セット

 

 男性と女性というものについて、なんとなくずっと気になっている。
この漫画が持ち込むものがどうも気になるのも、鳥公園の作品が引っかかるのも、LGBTが気になるのも、フェミニストっぽいアカウントをフォローしているのも、そこから来ている、のかもしれない、と思っている。

この手の作品は、私にとって必ず消化不良を起こす。わかるようで、あんまりわからない。ピンとこない。無自覚・無意識が揺さぶられるのだけど、一気に意識の世界にやってはこない。おぼろげなイメージが浮かんで漂って、それはすぐに消えてしまう。

 

世の「男性」がある役割を担い、それを行使し、それは「女性」を傷つける。ある「男性」はそこから逃げ出そうとする。ある「女性」はそれを批判し、別の「女性」はそれを肯定する。そこから派生して、「女性」同士にも力動が生まれる。
私は、男性として生まれて育ち、その役割を担い、行使し、女性を傷つけてきたんだろうかと思う。おそらく自覚はない。でも、やっていないことと自覚なくやっていることを、主観で区別するのは難しい。とはいえ、人の意見も客観的とは思えないこともある。小骨が喉に引っかかったまま、少しずつ腐っていっているような感じ。それはもはや呪いと言っていい。

ビッグワードさにうんざりするものの、そのストーリーに知らず絡めとられて、あまつさえ人を傷つけているというのは恐ろしい。「差別」というものも同様に気になっているのだが、こういう無意識に潜みがちな暴力的なものについて、コントロールできるようになっていきたい。それは死ぬまで時間をかけて、ゆっくり発達していくべき課題。それには、折に触れてじっくりと掘り下げて考えることや、耳に痛いことから学ぶことや、実際に行動を変えてみることが必要になってくるだろう。

 

 

 

(44)ねかさない/なじめない

当たり前のようでけっこう忘れてしまっていること。
手遅れってものはあるということ。
後回し、先送りにすることが、とりかえしがつかないことになる。

すべての選択についてうまくやることはできないけれど、
その案件が自分にとって(人にとって)どれだけ優先度の高いものなのか、
自分がそれを着手する準備ができているかどうか、
それを放置しておくことが悪化をもたらすかどうかの読み、
について自覚的でいること、アンテナを立てておくことは重要に思う。

 

その文脈と、つながってはいるものの、中心的ではないんだけど、
前々から気になっていた「イベントバーエデン」(東京本店)に行ってみた。
https://twitter.com/eventbar_eden

そういえば、前に札幌のほうに一度行ったことがあったのだった。
場所自体はおもしろいなと思いつつ、私自身がいまいち楽しめないのは、
たぶん社会性の低さとそれに付随するものが大きいのだろう。
要町ということで、いろいろ思い出してしまったのもある。

これについては、少しでも話題に入れそうな回を狙って、あと2回くらいは行ってみよう。

(43)カウンセリングのつかい方

わけあって、今年度に入ったあたりから、カウンセリングを受けている。
それは、私が直面しているAという問題をどうにかしたいと思ってのことだ。

 前に書いたように私は人に相談することに苦手意識を持っていて、
それは知人か専門家かを問わない。

sunasand.hatenadiary.jp

前に一度、全然別の問題のときにカウンセリングを受けたのだが、
いまいちで1回きりで中断してしまった。
今回は、いろいろな事情があって、5回くらいは続いている。

Aという問題は、少しずつ悪化しているように思える。
そんな中、カウンセリングを通じて、少しずつでも問題を整理し、切り口を見つけたいと思っている。

 

Aという問題と平行して、私はBという問題を抱えていた。
正確に言うと、私の近しい人が問題を抱えており、私は助けになろうとしていた。
そのBという問題は、あるとき形を変えて、B'という、私の問題になった。

こないだカウンセリングに行ったとき、私はAという問題を話したいと思ったのだけど、カウンセラーの先生からは、B'という問題を取り扱うことを勧められた。

B'という問題は、私にとっては決して軽くないものなのだが、それは自分なりになんとかしようと思っていて、いくつかの作業を行ったり、ふと突然頭の中浮かぶものにその都度対処したりしている。
なにか目的があるものではない、強いて言うなら、へちょんとなることを避けること。そのために、やれることをする。ここで言葉を紡ぐことも、その大切なプロセスのひとつだと思っている。

 

これと別に、産業医面談のようなところでも、B'という問題があることを話したら、それについて聞かれたのだが、それはもっと露骨に苦痛だった。私にとってその体験は、とても治療的とは思えなかった。
私はそれを、専門家といえど他人に相談する形で取り扱うことを、少なくとも今の時点ではあまり気が進んでいない。文字のかたちで吐き出すことと別に、話し言葉のかたちで吐き出すことには意味があると思う。でもそれだけならば、もっと適切な相手がいると思っている(あまり自信はないが)。

だから、次に会うときは、自分がこの場でB’という問題を取り扱うことに疑問を持っていることを伝えた上で、なぜカウンセラーはB'を取り扱おうとするのか、聞いてみようと思っている。

(42)人に相談できない

こないだいとこに声をかけてもらい、久しぶりに話をした。
私の家庭にあったことをいろいろと知っている人で、
私の近しい人ともいろいろとやりとりをしている。
小一時間くらいの話は、淡々としていたけど、
ポイントとなる問いに答えることで、自分の思っていることを確認したり、
あとはいくつかのコメント、提案をしてくれた。
とてもよい時間だった。
ありがたい。

 

私は人に相談するのが苦手だ。
ありとあらゆる相談が苦手というのでなく、自分の根っこにつながるようなテーマの相談がとても苦手だ。
それを人に伝えることもへたくそなんだろうし、相手の言ってくれたことを自分に取り込むこともへたくそなんだろう。加えて、相談を申し出ることも苦手だ。
仕事に関することは、自分の根っことは切り離されていることが多いので、比較的相談しやすい。
ある種のテーマについて、自分の中に閉じている。
外部リソースの力も借りることができるなら、もっと学び、もっとよいことができるんだろうと思う。あきらめなくてすんだことが多かったのかと思う。
このままではよくないと思っている。変わったほうがいいとは思っている。けど、こんな私でも相談できる道がひとつでもあれば、それを全力で大切にするというのも、ひとつのやり方かもしれない。

 

汎用的なものが使えないという性質。
自分用にチューニングしないと使えないという性質。
他人のものをそのまま受け取ることができないという性質。
できないわけではないが、大幅にパフォーマンスが低下する。
人からもらったアドバイスが腑に落ちないと、自分で実践するのに抵抗がある。生半可に取り入れても、少しでも想定外のことがあると、次にどうしていいかわからなくなるのが怖い。
人からは頑固だと見られるかもしれない。それは事実そうなのだ。でも私は、取り入れようと思ってもどう取り入れたらいいかわからず途方に暮れているのだ。あるいは、取り入れるための壮大な道を進んでいるところなのだ。
自分の苦手さについて、ナビゲーションブックのように、体系的にまとめるべき時期が来ているのかもしれない。