(41)サンキュー・コバエ

家にコバエが発生している。
原因は明確で、私が生ゴミを放置してしまっているからだ。
逆にいえば、生ゴミが出るほど、家でご飯を食べているということでもある。

私の価値観は、コバエの発生をよいと思っていない。嫌だなと思っている。
だけど、たぶんある種の人から見るとその反応はマイルドすぎて、平気なように見えるかもしれない。反応がにぶい、だらしないように見えるかもしれない。
「見えるかもしれない」と書いたが、それはそれで事実なんだ。主観的に0.001あることは、世間的には0ということ。そういうふうにできている。

自分としては、見えるものがすべてだと思い込む癖を改めたいと思っている。自分が感知できるものは、自分のアンテナに依存するし、対人場面では相手の自分に対する信頼感にも大きく依存することを、忘れてはいけない。

コバエの話をしていたんだ。
コバエは、夏の訪れとともに現れ、私の生活習慣の、問題点を浮き彫りにしてくれる。
とても迅速で、感情面を喚起する、すぐれたフィードバックなのだ。
私はコバエの発生を抑えようと躍起になって、生ゴミをこまめに処分しようとする。
そこで一旦やり方を覚えて習慣化してしまえば、秋になって、コバエ・フィードバックの力を借りなくても、自力で生ゴミ処分の行為を維持できるかもしれない。

(40)心の中で生きている

 自分たちが中高生の時代に流行ったライトノベルの新刊が出たと、去年けっこう話題になったのだが、読めずにいたものを、どこぞの書棚から借りてきて読んでみた。

 当時の自分が熱中したのと同じ温度で読むことはできないが、それでも自分の一部を形作っているものが共鳴し、自分にとって特別な作品シリーズだということは実感できる。

生身の人間が生きるということと、また違う意味で創作物のキャラクターが生きる、多くの人の間で現実となっていることの意味があり、そこから生身の人間が生きるということについて、より深く掘り下げることができるんじゃないかとぼんやり思う。

(39)たりないなりたる

新しい大学院の説明会を聞きにいってみる。
あたらしい学びの機会、同じような志をもっているかもしれない人たちが同じ空間に同席すること。

 

高校の同級生と久しぶりに集まって、歌ったり飲んだり馬鹿騒ぎをする。
みんな仕事をしたり、家庭ができたり、それぞれを生きている。

 

楽しみが足りないと、かき集めたくなるような気持ちになっているときは、なんかちょっと、よくないものが漂っているんだと思う。
ささいなことを楽しめるか、心を揺らせるかは、きっとこちらの気の持ちよう。
灰色なのは、砂の味なのは、きっとこちらのあり方が現れているのだ。

 

やろうと思っている仕事が積み重なってきている。
整えていく過程、きしみに耳をかたむけること、無理はしないこと。
悲しみをあたためることと、おおうことの、並行世界を生きること。

どんな状況でも、生きることは、生きること。

(38)生活の基本

あたらしいことをはじめて、何度かくりかえしている。
まったく同じではないけれど、前の経験が重なって、少し気づきが拡がったり、工夫を加えたり、バリエーションを感じたりする。
どきどき感のチューニング。
はじめてのときほど高くない、ちょうどいい緊張感の水準。
これをただ漫然と繰り返し続けると、たぶん気づきは薄くなり、自動化されていく。
そのあいだの気づきを土台にして、さらにあたらしい挑戦を加えると、そのちょうどいいどきどき感がつづいていく。とても学びの多い時間。

わたしの今週のトピックは、ご飯を炊くこと、肉と野菜を炒めること、インスタントみそ汁、そしておにぎりを2つ。作って食べて洗うこと。お風呂に入って寝ること。

 

仕事のやり方や、職場づくりに関する本を読み直している。
一度読んだだけでなんとなくわかったつもりになって、そのまま流れてしまったもののなんと多いことか。
章のおわりにまとめが書いてあっても、少なくとも自分の言葉でまとめ直す。腑に落ちない言葉は使わない。味のないガムを噛むように、白地図を眺めるように、知らない言葉に飛び込むことはそれはそれでしてみる。
本に書いてあることは、一般論だったり、他人の事例だったりする。それと私の間には距離がある。その距離を埋める作業が重要なのだ。
中でも、異なるソースがつながる瞬間はとてもおもしろい。仕事のやり方を標準化することの重要さについて読んでいるとき、借金玉の本が頭をよぎる。標準化されたやり方に合わせられない人もいる。そりゃそうだ、どっちもそうだよな。表と裏から光が当たり、突如として立体感が浮かび上がる。
個人的には、もうちょっと足りない。実践まではもうちょっと。手を動かすと、経験は圧倒的な量になり、整理するのが大変になる。膨大なものをなんとなく整理する機能は私に備わっていなさそうなので、バイパスを、そのプロセスを進めるための部屋を作ってやる。

 

生きるというのは、まあ、いつか終わりはくるのだけど、感覚的には終わりのない、というか、終わりを意識しない、続き続けることを意識するプロセスだ。終わりのある中のプロセスと続いていくプロセス。続いていくものを、終わらせたくなることもあるだろう。終わりのあるものを、続かせたくなることもあるだろう。そこには想いが詰まっている。

(37)自分の人生と接続する

早めに職場を出て、ラーメン屋の誘惑を横目に、スーパーで3,000円買って帰る。
玉ねぎと人参とピーマンとズッキーニともも肉を刻んで炒めて食べる。

 

自炊をすると、ちょっと安心する。
自分の生活を、自分の手作業で作り上げることは、必須ではないけれど、とても重要なことだと思っている。そこからあまりにも離れすぎてしまうと、離人感じゃないけど、なんか、離れてしまう感覚があって、それが行きすぎると、なんか、はがれてしまう。
自分の人生とくっついている感覚は、いろいろな日常の振る舞いで感じることができる気がする。思ったことを言葉にすればくっつくし、黙っていると離れる。気が乗らないことを無理してやると離れる。やりたいことがやれないと離れるし、部屋の居心地がよくなるとくっつく。

 

人と関わることは、大体は離れることになる。ひととき自分と離れることと、貴重な経験を得ることができる。新しい経験というのは、自分の栄養になっていて、そこから自分自身が変わることもできる。はじめは違和感があったものが、しだいになじんでいくプロセス。
そういうのって、距離感が重要で、あまり離れすぎると、自分とつなげることが難しい。逆に、ある程度近くないと、流れてしまって、本当の意味で響かない。自分とつながらない。でも、そのつながらなさがよいようなこともあるし、とんでもない距離から自分につなげることができる人もいる。
ほとんど思いどおりにならない人間関係について、それでもデザインしたいと思っている。それが、大きな意味で自分の人生と接続することになると思っている。

(36)人と関わる難しさ

睡眠生活と食生活は、取れたり取れなかったりという荒れ気味で続いているけれど、消化器に配慮した内容にしたりするあたり、生きようというベクトルは根づいているような気がする。あるいは楽になりたいだけか。
あるがままを受け入れることは、それなりにはできるけれど、だんだんと外側とのギャップが大きくなってきてだんだんと辛くなってくるので、チューニングのレパートリーがもうちょっと増えるといい。具体的にはリラクゼーションとか、それ以上に難しそうな集中力とか。
とりあえずやれることからやってみる。

 

選挙で投票するということは、いきなり選択を迫られても、どうしたらいいのかわからないという人も多いんじゃないかな。
最近、改めて組織論を考える機会に恵まれているのだけど、人を動かすというのは簡単なことではない。職場での権力とか、サービスの買い手みたいに、人を動かすのは簡単だというイメージが張り付いてしまっているのかもしれない。
既に絞り込まれた結論があって、そこに他人を誘導したいというような場合は、それが客観的に是とされるかという論点が生じる。少し根っこのほうで、なにかに関心を持たせるとか、なにかについて考えさせるということは、即座に害を及ぼすことは少ないかもしれないが、同等以上に難しいことだ。
「◯◯党に投票しよう」よりは、「選挙に行こう」のほうがマイルドだろうが、それでも関心のない層の大部分にはアプローチできない。投票率を上げることで自分たち世代に得があるということを信じられるか、それが本当にいいことなのか、深い考えなしに決めた一票が悪い影響をもたらしはしないか、生真面目にそんなことを考える人にとって、投票放棄という選択は、少なくとも心理的には十分に合理性があるように思える。
「健康診断を受けよう!」とか「差別はよくない!」とかは、真っ向から反対する人はいない分、国民運動はシンプルでやりやすい。ほんとは、「禁煙を進めましょう!」とかも、反対の人はきっといるんだけど、大っぴらに声を上げられない。
選挙は、投票行為だけ切り出してしまうと、どうも薄っぺらくなってしまう気がする。お祭りにして、勢いで投票させるのは、ある意味有権者をバカにしているようにも思う。

 

自分の考え・気持ち・理屈を言葉や態度に示すのは、誰にでもできることとは限らないが、それなりの手続きを踏めば、それなりにはできることが多い。だけど、それが対話を導くか、相手に響くかというと、それはまた別の話。話し手の想いの強さが受け手の心を動かすこともあるだろうが、それは、想いさえあればいいということとは全く違う。ある種の人に有効な方法が万人に効くとは限らない。

本当は、声を聞くことから始めるのがいいのだろうけど、関係がないと、声を聞くのも難しい。築いた関係だって、容易に崩れてしまう。

どうしたらいいものか。それでも考え続けて、実践し続けるしかないんだよな。

(35)ヒトがモノになるとき

↓こんな記事を書いたせいか、24時間とちょっとくらいのあいだ、ウォっと深めに沈んでいたのだけど、浮きつ沈みつしながらも、なんとか下げどまった感じ。
(34)まだ仕事はなんとかできる - LoS (Locus of Scent *2)

 

最近は、頭のすみっこでいつも、ここのブログで何を書こうか考えている。
YouTuberがネタ探しをするみたいなものに近い、アンテナ。
朝家を出るときにテーマカラーを決めて、街の中でその色のものを探す遊び(名前忘れた…)とか、どこぞの羊がやっていた目先のワークみたいな、マインドセットをミクロに変えることで、今まであったのに気づかなかったことに気づけることには、その中身の価値と別に、発見の楽しさがある。
洗濯物を溜めてしまい、初めてパンツを裏返して穿きながら、そんなことを考えている。

 

人間ドックで、胃カメラというものを初めてやってみた。
液体の麻酔で口が痺れるのは歯医者で経験したことがあったけど、ホースを切ったような輪っかを噛まされ、泣いてもえずい※ても容赦なく管を突っ込まれ、自分にできるのは舌でちょっと口の中の管の位置を変えることくらい。空気入れられようが生体つままれて血が出ようが、それどころじゃなかった。
※モノは出ていません。うぇってなりまくっただけ。

 

そんで思ったのが、人間て、自分て、今まで思ってたよりはるかに、他人にとっては「物体」なんだな、ということ。
人間を無前提に心のある人間と捉えるのは、そういうマインドセットがあるから、そうしたいと思っているからで、そうでなければ、他人というものはカキワリだったり、見世物だったり、処理対象だったり、あるいは不存在になったりする。
頭ではうっすらわかっていたことだが、強烈な実感を伴って理解した。

 

ヒトは、容易にモノになる。
それは、捉える側の心理にもよるし、それに影響を与えるという意味で、捉えられる側の要素にもよる。

どんな人と、どんな関係を作っていくか。という、関係性のデザイン。
望ましくない関係性になってしまっていると思ったときに、どうやってそれをチューニングし、あるいは抜本的に変えるか。

そんなことが、今ちょっと気になっている。