(239)流体が出入りー

翌朝にブログを更新するデイリーな習慣が続くといい。続かなくても、ときどきできるといい。だいぶ久しぶりになっても、やっぱり更新できればそれでいい。日々。

久しぶりに体重を測ってみたら、ある程度落ち着いていた体重から、3kgくらい増えていた。体重が増えるのは悪いことだみたいなステレオタイプに私はだいぶ染まっていて、どうもネガティブなイメージをもってしまう。具体的には、服がきつくなって入らなくなるのはつらい。心当たりはないけれど、だから余計におそろしい。1月は仕事がけっこう忙しくて外食が多かったり、間食が増えたりしたからなのかな。運動はむしろはじめたけど、体重落とせるほどは動いていない。

土日や夜中にちょいちょい注ぎ足していた案件が、ようやく離陸しそうでほっとしている。最前線の出先機関に立っている同僚のために、どんな後方支援ができるか。圧倒的に見えないものに対し、雑に決めつけるのでなく、自分の枠組みに切り取るのでなく、なるべく関係者と喧嘩せず、ねばり強く取り組んでいきたい。仕事のことを書こうとすると、どうしてもふわっとしてしまう。

クラブハウスの話がここかしこから漏れ聞こえているが、その辺にリソース取られてもあんまいいことないと思っているのでミュートにして、ギアが噛み合うところにリソースを投下する。土曜日にオンラインで話した「幸せ」と「支援者」について考えを深めたいと思っているので、くりかえし自分にリマインドする。

フェイスブックにおもむろに、「オンライン市役所」というグループの案内が流れてきて、おもむろに参加する。公務員をやっていることの意味が、またひとつ豊かになるかもしれない。しばらくは様子を見ているけど、無理なく発信できるタイミングはよくよく伺っていきたい。

(238)人との交点

大学院時代にカリキュラムを担当していたうちの1人の先生が、大学院OBOGを含め、大学外で継続的に学ぶ機会を開催されている。ゼミに所属していたわけでもなく、関わり自体はあまり深くなかったと言っても言い過ぎではないのだけど、なにかの縁で、その機会の案内を送っていただいている。コロナ以降、場をオンラインに移して開催されており、メールで流れてくる感想を見るに、非常に興味深い内容なのだが、開催曜日の関係で、オンラインになってからは一度も参加できていない(オフラインでも、1回参加したことがあったかなかったかくらいではある)。いつかどこかで、参加することが叶うのだろうか。そしてそれは、私にとってうれしいことなんだろうか。

誰かに好意を持つということは、少なくともモチベーションの源泉になるという意味で、自分にとって良い効果がある。それがまだ小さいうちは放っておけばいいのだが、育ってくると、いろいろと思考がゆがんだり、公平でなくなったり、思いが昂じて悪さをしたりする危険もはらんでいる。だから、好意自体のボリュームをコントロールすることや、そこから生じる事象のコントロールをするという、好意のマネジメントってものは必要となってくる。

子とすごす時間。こういうことをしたら喜ぶんじゃないかとか、こういうことを経験する機会を作ってあげたいとか、事前に企んだりその場で思ったことを、時には慎重に、時には大胆に、あるいは適当にやってみる。日常は試行錯誤の場だ。予想どおりの反応のこともあれば、思いもよらないこともある。そうでなくとも予想がつかないことばかりで、そしてそれがとても楽しい。特に、節分が今年は2月2日だったことをついこないだ知った人間が知った風な顔をして、節分の次の日は立春と言って春の始まりの日なのだよと説明したとき、「立春の日は何をするの?人が何もしなくても季節は変わるの?」という反応が、とても面白かった。確かに、行事ってものを、その日に何をするかで私たちはとらえがちだ。こういう機会がいつまで続くかわからないけど、1回1回を大切にしたい。

(237)街の中を走り走る

土曜日の起きたあとは、1週間の中で一番気力が充実している。(ただし、それが早朝になるか、遅めの午前中になるか、はたまた昼過ぎになるかは、金曜夜の過ごし方次第だ。)ここ最近その時間を、外周(ジョギング)に当てている。先週定期圏内片道をなぞり、土曜の朝に職場の前まで行くことに成功したので、今度は逆に、まず電車に乗って職場の最寄り駅まで行き、逆向きに家まで戻ってくることをした。

どこかである種の人たちが「経験から学んでいく人たち」と称されていたが、私もたいがい、理解が遅れてやってくる。多くの人が理解するタイミングで、まだぽからんとしていて、みんなが走り出したあとでようやく、どこに行くべきなのか、何をするべきなのかがわかる瞬間が浮かびあがる。情報処理が遅いというより、理解に至るまでに必要な情報が多い=燃費が悪い。あるいはポジティブな言い方をすれば、マリオカートクッパばりに、トップスピードまで行くのに時間がかかる。トップスピードで全員ぶっちぎれればいいものの、そうはいかないのが悲しいはなし。つい最近も似たようなことを書いた。

とにかく、どんどん新しい経験を広げていくと、私は情報の整理が追いついていかずに混乱した挙句、あるタイミングでまるっきりすべて忘れたりしやがる。だから、既存の経験をなぞって復習しながら、少しずつ新しい意味を載せていって、立体感を増していくようなやり方が好きだ。十分に腑に落ちた概念ならば、前提を差し替えることもあまり苦にならない。そんなわけで、ことジョギングという文脈、あるいは居住地の地理を理解するという文脈で、漸進的な試みをしている。今度は、これまでスルーしてきた分岐点を選択し、最短ルートを通してみたり、別の点とつなげることをしようとしてみる。通りがかった気になるお店も、ジョギング中じゃ通りすぎるくらいなので、いつかの折に中に入ってみたい。

この日はテレビ電話で3件の予定があって、そのどれらも思うところがたくさんあったのだが、1つ目にだけ触れてあとは次の機会に。祖母の部屋とテレビ電話でつなぐ話が、先週の初挑戦では自分の予定が合わず、2回目にしてようやく実現。あまり長い時間は難しいかもねと言われていた意味がわかる。対面と比べ、使えるコミュニケーションのチャンネルが限られているので、つながるのが難しいと感じる。でもそれは、対面でも似たようなことが起こってはいなかったろうか?お互い、鉄が熱いうちに創意工夫をかけ登りたい。

(236)ちまちま積む

のんべんだらりとしたブログを書いていると、のんべんだらりとしていることが知人にばれて、「忙しい忙しいと言っているけど、のんべんだらりとしているじゃないかー!」と怒られるのではないか、という不安がふっと頭をよぎることがある。なんせここに書いていることは、まったく書く必要のないことだ。(これは、世間一般的な意味でいっている。個人としては、ばくぜんとしつつも確固とした必要性に基づいてブログを書いているつもりでいる。)なんとかピックの偉い人が、これでもかと失言をして残念なことになっている。世の中には残念なものがありふれているのはどうしようもない事実で、だからそれにどう関わるか・関わらないかが人生の個人差を形づくる。私も失言では全然人のこといえない。

春が立ったからかとても日中はとても暖かい日で、日中に出歩くことがあまりないからかもしれないが、いつの間にか小春日和が訪れる季節になっていた。子の身体性についてお話を伺う。とってもおもしろい。できるとできないの間、ちょっとこわいがおもしろいの最近接を、しっかりとした安全の中に、たくさん織り込んで経験させてあげたいという親のエゴを抱く。

へぎそばを食べる。

(235)ぐにゃりくにゃり

ちょいちょいとテレワーク。朝ごはんを食べたり食べなかったりしつつあって、この崩れはあまりよくない崩れ。職場ではコーヒーを飲みすぎるし、自宅ではお菓子を食べすぎてしまう。環境が行動を規定する。家庭の用事で、子の社会性についてお話を伺う。近くでいつものおいしいラーメンを食べる。伊達メガネを買おうと思っていたのを別の日にすることにして、洗濯ネットと線香の予備を買う。お目当ての自転車屋は定休日だった。ずっと行きたかった中古の絵本屋さんについにいく。店内には入れなかったが、それでもすてきな本に出合えた。翌日の子どもうけはあまりよくなかった。

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生活空間のある施設が、一部故障していて、それは修理されないことになっていると聞いていたのだが、それが修理されることになったとのこと。なにがあったんだろうと思うが、よくなるのだからとあまり気にはとめない。良い変化はスルーしがちだが、悪い変化には過敏に反応しがち。そういうふうにできているので、意図をもってアジャストして、良い変化に気づけるようになりたい。

家でもグリーンカレーを食べる。にがくてあまいの最終巻(おかわり)を買う。

 

(234)ビーンズからのスタンダップスプリング

節分て、2月3日だと思っていたけど、実は今年は2月2日だったと知って軽くおののいている。1月の第2月曜日みたく、そういうあれで決まるのか。私は常識がなさすぎるので、これがどれだけ知ってて当たり前のことなのかもとんと検討がつかない。てか、立春の前の日が節分なのか。すでに春。どっちにしろ、鬼のお面は作ったし、豆は買ったけれど、1人でやってもしょうがないし、スルーしてしまった。鬼ってなにかの象徴なんだろうか。そりゃそうか。

1週間くらい、ほぼずっと仕事でひとつの案件のことをやっている。そう書いて気づいたが、基本的には自分の仕事はマルチタスクになっている。だから、タスク管理も仕事のうち。どんどん積もっていく新規案件を横目に見ながら、最低限処理しなければならないものだけ手を出して、またそのひとつの案件に戻ってくる。煮詰まっているわけではないが、とにかく時間がかかる。ぐつぐつ。思考の幅が狭まっている。逆に言えば集中していると言えなくもない。

グリーンカレーを食べる。

(233)反応が遅いわたし

松屋で復刻したシュクメルリ定食に手を出したり、家族とテレビ電話のアポを取ったり、雨が降ってるので買ったばかりの靴下を履くのをやめたり、週1の外周が順調に続けられている反面、昨年風呂上がりに習慣化しつつあったストレッチがご無沙汰になりつつある。同じくご無沙汰だった自炊を復活させようと、先週買った「はやねはやおき四回食」を意識してたら食べすぎてしまうことしばしば。

よくわからないものに接し続けているうちに、嬉しいものも嫌なものもひっくるめて、離れざるを得ないようなことにならない範囲で、接し続けることを続けていると、じんわりと理解の泡が浮かび上がってくる。それは仕事のこともそうだし、自分のこともそう。街のことも。電車の駅として、頭の中でとびとびになっている駅名地名が、こっちにこれだけこの道を行けばつながっているんだとわかったとき、一度わかったと思ってもそれが違っていて、ちょっと混乱して、よーしちょっと落ち着いて考えてみよう、と、自分の誤解の核となっている思い込みや勘違いがどこかにあるんじゃないかと走査する。それが見つかると、喉に刺さった小骨が取れたように爽快で、視界が開けた気分になる。

久しぶりに夜更かしをして、終わらない仕事を少しだけ進める。大変な官僚たちがにわかに取り上げられて、その文脈で働き方改革が取り上げられていることに、複雑な思いがわいてくる。それは真実の一片だけど、すべてがそうなわけじゃない。理解は誤解の種になる。でもそういうのも含めて一連の現象なんだよなあ。どこまでコントロールしようとするか。どこまで成り行きに任せるか。