息吹

やりたいことは、根こそぎやったほうが、絶対おもしろい。
という、あたりまえのようなことに、名前をつけてやって、ひいきをしようとしてみる。

タスクマネジメントがいまだに苦手で、プルタバルタなんて謎の言葉を言い出してから少なくとも6年は経つのに、あまりできるようになっていない気がする。

じゃあ一方でなにができるようになってきたかというと、二十歳をとうに越えてから、生まれて初めて、自分を知ることを始めたのだと思う。
中学校からネット媒体で、紙ではもうすこし前から書き続けていた日記というやり方をアレンジして、まずは自分が感じていること、考えていることを紙に書きだしてみる。すぐに文字になりにくいときは、口でつぶやいてみる。書いたり消したりしながら、迸るものや、かすかなものについてしっくりくる言葉を探した。
それから、本で読んだり、指導教官の先生方から教わった、心理学的な、こころを理解するアプローチ、精神分析的なものや、認知行動療法的なものを適用してみる。繰り返されているもの、取り扱いたくなくて目をそむけていることが、少しずつ見えてくることもある。自分のありようを理解する上で、発達障害に関する知識はとても役に立った。
大学院時代、比較的落ち着いた環境でそういった作業ができたのはとても幸運で、その後働き始めてから、その時その時に課題が発生するのだが、自分なりのやり方で、起きていることを解きほぐして、目指したい状態に見通しを持てたり、自分への処方箋を出すことができたこともあった。2年前に「鈴木先生」という漫画を読んだことにも、影響が大きく受けていると思う。
一方、仕事の経験を積むことで、社会で常識とされることについての知識を得るなどを通じて、自分の理解だけでなく、他者を理解することについても、少しずつ挑戦する機会に恵まれた。自分の感じたことを、表情や言葉で人に伝えることが、演劇やその他のコミュニティを通じて、新たな人との出会い、交わり、ときに再会をもたらす。
そんなことを、やってきたのだと思う。

最近、いまの職場でいま自分が働いていることの意味や、これから自分がどのように働いていきたいのかについて、ひとに言葉にしてもらうことがあった。

いままでやってきたことと、これからやっていくこと。過去と今をつなぐこと。未来に希望と展望を持つこと。それはとてもおもしろいことで、だからこそ、行動とパッチしていって、育ててやることが必要となる。重要となる。

話はとっちらかり、まとまらないまま終わる。
わたしは多分、結論が出ないままブログを書く。この途中のプロセスに、意味があると思うから。