(277)やわらぐ脳みそ

よくもわるくも意図してしなくてを問わず、人間というものは、ある種の「もののみかた」「考え方」の枠組みを持っている。それをフランス語みたいに「スキーマ」と呼んでいる。ある人間の経験は、環境や出来事だけで決まるのでなく、スキーマを通して経験になる。その人が考えることは大いにスキーマに影響されるし、その人の発言・行動も、スキーマに基づいて行われる。スキーマが精神的な枠組みなら、身体的な枠組みにももちろん、大きく左右される。身長150cmの人は棚の上のほうに届かないが、他人に頼むスキルを磨いているかもしれない。身長190cmの人はしょっちゅうおでこをぶつけていたが、反射的に背を丸める術を身に付けたかもしれない。身体性とスキームは絡み合って、その人のパターンを作り上げている。それらは変わりうるが、一方で同一性を持っている。変化のしかたすらも、その同一性に規定される。行為でなくて人間を評価するというのは、その同一性を評価するということだ。

自分のスキーマを意識するのは、たいてい壁にぶつかったときだ。自分のスキーマで物事がうまくいっているうちは、自分の持っているスキーマを意識することは一般的にあまりない。壁にぶつかったとき、それを何に帰属するかというフェーズがある。外部に帰属した場合、スキーマを意識することはない。内部に帰属した場合、自分の身体性やスキーマ、あるいは、それらと環境との相互作用について意識を向ける。帰属のスタイルも、その人のスキーマによる。(スキーマスキーマうるせえな。)(もうちょっとで言いたいところに行くはず。)何が言いたいかというと、私は自分のスキーマと向き合うことを、基本的には好む。心理学を学んだのは、結局のところ自分のことを知りたいからで、自分のスキーマと向き合うためのフレームワークとして、心理学の知識は大いに役立ったと思っている。(スキーマという概念も、心理学の教科書から引っ張ってきたものだ。)知らなかった自分の一面を理解し、環境に適応するためにはどうそれを変容したらいいか考える。うまくいかないときは、問題解決をあきらめることもあるが、試行錯誤しているうちに、新たな問題解決手法を身につけられることもある。やばいくらいドーパミンが出るやつ。

人と関わるというのは、私にとってよく壁にぶつかるものだ。人と関わるのは本当に難しい。私は割とTPOをわきまえるのが得意でなくて、比較的多めに率直にふるまってしまう。だから、まるで意味のないような嘘をついて、その理由が到底理解不能なものだったり、とても重要なできごとが話されずにいて、その理由が些細な勘違いであるかのような説明を聞くと、自分の素朴に持っていたスキームとのギャップが激しすぎて、激しく混乱する。血中のブドウ糖が一瞬で蒸発する音が聞こえる。だがしかし、それをなかったことにせず、アグレッションを向けることもせず、それがその人のリアルなのだ、それがこの世界の現実なのだと受け止められたら、そしてそんな人や世界とうまく関わる方法を見出すことがもしできたなら、私はまたすこしだけ発達できるのではないかと思っている。