(37)自分の人生と接続する

早めに職場を出て、ラーメン屋の誘惑を横目に、スーパーで3,000円買って帰る。
玉ねぎと人参とピーマンとズッキーニともも肉を刻んで炒めて食べる。

 

自炊をすると、ちょっと安心する。
自分の生活を、自分の手作業で作り上げることは、必須ではないけれど、とても重要なことだと思っている。そこからあまりにも離れすぎてしまうと、離人感じゃないけど、なんか、離れてしまう感覚があって、それが行きすぎると、なんか、はがれてしまう。
自分の人生とくっついている感覚は、いろいろな日常の振る舞いで感じることができる気がする。思ったことを言葉にすればくっつくし、黙っていると離れる。気が乗らないことを無理してやると離れる。やりたいことがやれないと離れるし、部屋の居心地がよくなるとくっつく。

 

人と関わることは、大体は離れることになる。ひととき自分と離れることと、貴重な経験を得ることができる。新しい経験というのは、自分の栄養になっていて、そこから自分自身が変わることもできる。はじめは違和感があったものが、しだいになじんでいくプロセス。
そういうのって、距離感が重要で、あまり離れすぎると、自分とつなげることが難しい。逆に、ある程度近くないと、流れてしまって、本当の意味で響かない。自分とつながらない。でも、そのつながらなさがよいようなこともあるし、とんでもない距離から自分につなげることができる人もいる。
ほとんど思いどおりにならない人間関係について、それでもデザインしたいと思っている。それが、大きな意味で自分の人生と接続することになると思っている。

(36)人と関わる難しさ

睡眠生活と食生活は、取れたり取れなかったりという荒れ気味で続いているけれど、消化器に配慮した内容にしたりするあたり、生きようというベクトルは根づいているような気がする。あるいは楽になりたいだけか。
あるがままを受け入れることは、それなりにはできるけれど、だんだんと外側とのギャップが大きくなってきてだんだんと辛くなってくるので、チューニングのレパートリーがもうちょっと増えるといい。具体的にはリラクゼーションとか、それ以上に難しそうな集中力とか。
とりあえずやれることからやってみる。

 

選挙で投票するということは、いきなり選択を迫られても、どうしたらいいのかわからないという人も多いんじゃないかな。
最近、改めて組織論を考える機会に恵まれているのだけど、人を動かすというのは簡単なことではない。職場での権力とか、サービスの買い手みたいに、人を動かすのは簡単だというイメージが張り付いてしまっているのかもしれない。
既に絞り込まれた結論があって、そこに他人を誘導したいというような場合は、それが客観的に是とされるかという論点が生じる。少し根っこのほうで、なにかに関心を持たせるとか、なにかについて考えさせるということは、即座に害を及ぼすことは少ないかもしれないが、同等以上に難しいことだ。
「◯◯党に投票しよう」よりは、「選挙に行こう」のほうがマイルドだろうが、それでも関心のない層の大部分にはアプローチできない。投票率を上げることで自分たち世代に得があるということを信じられるか、それが本当にいいことなのか、深い考えなしに決めた一票が悪い影響をもたらしはしないか、生真面目にそんなことを考える人にとって、投票放棄という選択は、少なくとも心理的には十分に合理性があるように思える。
「健康診断を受けよう!」とか「差別はよくない!」とかは、真っ向から反対する人はいない分、国民運動はシンプルでやりやすい。ほんとは、「禁煙を進めましょう!」とかも、反対の人はきっといるんだけど、大っぴらに声を上げられない。
選挙は、投票行為だけ切り出してしまうと、どうも薄っぺらくなってしまう気がする。お祭りにして、勢いで投票させるのは、ある意味有権者をバカにしているようにも思う。

 

自分の考え・気持ち・理屈を言葉や態度に示すのは、誰にでもできることとは限らないが、それなりの手続きを踏めば、それなりにはできることが多い。だけど、それが対話を導くか、相手に響くかというと、それはまた別の話。話し手の想いの強さが受け手の心を動かすこともあるだろうが、それは、想いさえあればいいということとは全く違う。ある種の人に有効な方法が万人に効くとは限らない。

本当は、声を聞くことから始めるのがいいのだろうけど、関係がないと、声を聞くのも難しい。築いた関係だって、容易に崩れてしまう。

どうしたらいいものか。それでも考え続けて、実践し続けるしかないんだよな。

(35)ヒトがモノになるとき

↓こんな記事を書いたせいか、24時間とちょっとくらいのあいだ、ウォっと深めに沈んでいたのだけど、浮きつ沈みつしながらも、なんとか下げどまった感じ。
(34)まだ仕事はなんとかできる - LoS (Locus of Scent *2)

 

最近は、頭のすみっこでいつも、ここのブログで何を書こうか考えている。
YouTuberがネタ探しをするみたいなものに近い、アンテナ。
朝家を出るときにテーマカラーを決めて、街の中でその色のものを探す遊び(名前忘れた…)とか、どこぞの羊がやっていた目先のワークみたいな、マインドセットをミクロに変えることで、今まであったのに気づかなかったことに気づけることには、その中身の価値と別に、発見の楽しさがある。
洗濯物を溜めてしまい、初めてパンツを裏返して穿きながら、そんなことを考えている。

 

人間ドックで、胃カメラというものを初めてやってみた。
液体の麻酔で口が痺れるのは歯医者で経験したことがあったけど、ホースを切ったような輪っかを噛まされ、泣いてもえずい※ても容赦なく管を突っ込まれ、自分にできるのは舌でちょっと口の中の管の位置を変えることくらい。空気入れられようが生体つままれて血が出ようが、それどころじゃなかった。
※モノは出ていません。うぇってなりまくっただけ。

 

そんで思ったのが、人間て、自分て、今まで思ってたよりはるかに、他人にとっては「物体」なんだな、ということ。
人間を無前提に心のある人間と捉えるのは、そういうマインドセットがあるから、そうしたいと思っているからで、そうでなければ、他人というものはカキワリだったり、見世物だったり、処理対象だったり、あるいは不存在になったりする。
頭ではうっすらわかっていたことだが、強烈な実感を伴って理解した。

 

ヒトは、容易にモノになる。
それは、捉える側の心理にもよるし、それに影響を与えるという意味で、捉えられる側の要素にもよる。

どんな人と、どんな関係を作っていくか。という、関係性のデザイン。
望ましくない関係性になってしまっていると思ったときに、どうやってそれをチューニングし、あるいは抜本的に変えるか。

そんなことが、今ちょっと気になっている。

(34)まだ仕事はなんとかできる

少し前に書いたように、日常生活をしていると、ぼんやりすることがある。

(31)柔わらかいものにふれる - LoS (Locus of Scent *2)

仕事の最中だと、ほどなく戻ってこれるのだけど、ひとりで家にいると、それが長引いて、何十分も経ってしまうことがある。

 

アポイントとか、人がいるとか、他律的な要素があると、厳密には、他律的な要素があると私が認識しているものがあると、あまりその水たまりを潜ることはしない、せずにすむ、するのをさまたげられる、膜が張る、糸が張る、ような気がする。感覚がある。

それがないと、ふらっとあらわれたその水たまりに、角度を向けて、指先をひたし、じんわりと冷たさが染みていき、頭がぐるぐるしだす。それを進めたいきもちと、進めずにおきたいきもちがまわりをうろちょろする。

針と糸が布の表裏を行き来するように、いまやっていたそれと、ふと沸いた水たまりが、交互にくるくると、回るコインのように、わたしの中をめぐっていることがある。

やがてそれは表か、裏かに落ち着く。

 

それが今の私の脆弱性だということはわかっているんだけど、手当ての方法はいまいちわからない。会社の医者には話したけれど、申し訳ないが何も知らない人にそれ以上話す気になれない。抱え込んでいるものが少しずつ膨れているかんじ。
場当たりではなくて、ちゃんとそれをなんとか取り扱う方法を考えなければならない段階に来たのかもしれない。

(33)文化に触れる

自分は、文化とか、教養とか、常識といったものには縁遠いと思っている。
それらをWikipediaで引いてみると、こんなことが書いてある。
文化:ハイカルチャーのように洗練されたもの、象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン、ある社会組織に共有されている価値観。
教養:一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。
常識:社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。

 

こういうものって、個人の好きとか嫌いとか、個別具体的な自分の状況とはあまり関係なく要請されるものなのだと思うが、そういうところにうとい私は、これまで無頓着に生きてきてしまった。
厳密には、それらの一部は認識して、必要性を感じて、一定程度身につけることには成功しているが、他の人と比べるとおそろしくその水準は低い。
なので、このあたりのハイコンテキストなやりとりが開始されると、溺れるように訳がわからなくなる。
自分の特性がもたらすものは、周囲の環境との関係で大きくことなる。ある環境では強みとして生かせるものが、別の環境では致命的となったりする。

 

そっち方面の話は、これまでもいくらでも書いてきたし、これからもいくらでも書きたいのだが、今日はそこに焦点を当てるのではなくて、私の数少ない文化的な営みに、図書館でCDを借りるということがある、ということを書きたい。前に住んでいた家は最寄りの図書館が充実していて、毎週覗いては何かしら借りるということをしていた。CDも、特に目当てがなくっても新規入荷や返却されたものの棚を覗き、何かしら借りるということをしていた。

今日、すごくひさしぶりに、図書館でCDを借りた。記録を見てみたら、前にCDを借りたのが去年の11月。そのときは子どもが好きそうなものを借りたから、自分のためにCDを借りたのは去年の4月にまで遡る。ラインナップは、「逃げ恥サントラ」「モテキサントラ」「相対性理論」「宇多田ヒカルコンピレーション」「岡崎体育」の5本。そういえば歌えるようになりたい曲も踊れるようになりたい曲もあった。
困ったときに頼れるところをいくつも見つけておくことが大事なように、ささやかでもいいから自分の楽しいと思えることをいくつも見つけておくことが、思った以上に大事なんじゃないかと思った。直接問題解決につながるわけではないけど、気持ちを休めたり、元気をもらえるということはありとあらゆる困難への対処に通ずる。

(32)新刊が待ち遠しい

 物語のもつ力動のひとつに、「続きが気になる」というものがある。
そして、連載ものは、あるところで途切れていて、続きを待たなければならない。
しかも、続きが出るまですごく長い時間がかかったり、出なかったりするかもしれない。

BEASTARSという、たぶんちょっと前から流行りだした漫画に、ちょっと遅れたタイミングで数カ月前にはまりだし、こないだ出た新刊をさっそく電子書籍で買った。

 そのとき思い出したのが、ダブルブリッドの最終巻に出会ったときのこと。

ダブルブリッドX (電撃文庫)

ダブルブリッドX (電撃文庫)

 

中高時代、神坂一スレイヤーズ上遠野浩平ブギーポップ西尾維新クビキリサイクルなど、いくつかの作家を軸にライトノベルにはまっていた中、強いて一番好きなものを挙げるとなると、このダブルブリッド・シリーズになる。

最終巻の10巻と、番外編が出ているが、最後の数巻が出るまでが本当に長かった。本編は雑誌に連載もされておらず、完全に書き下ろしなので、全く読めない。毎月本屋に張り出される電撃文庫の新刊をチェックし、続刊が載ってないか探したものだ。

 

ダブルブリッドの最終巻を買ったとき、なんだかすごく脱力して、「生きててよかった」と思ったのを覚えている。

しょうもないことだけど、「~~を観るまでは死ねない」というモチベーション、大切なものだ。

(31)柔わらかいものにふれる

パソコンからブログを書くということを久しくしていなかった。

パソコンと、タブレットでは、言葉のリズムがだいぶ違う。
身体性、みたいなものがある。

パソコンで作文したときのほうが届きやすいところに、アクセスしたくなったのかもしれない。
ただ、この新しいはてなブログのインターフェースはまだ慣れない。
しばらく試行錯誤してみようと思う。

 

日常生活を。
夜布団で寝て、朝起きて、服を着替えて会社に行く。
挨拶をして、パソコンを立ち上げて、メールを読んで、人と話して、書類を作って。
ダレたらおやつを買いに行って、日が暮れたらパソコンを閉じて帰る。
日常生活をしていると。

ふとした拍子にやわらかいところがつつかれて、うっとなる。
意識の大半が、そこに持っていかれる、フォーカスする。
外からは、ちょっとぼんやりしているように見えるのかもしれない。

ちょっとそれを噛みしめて、歯をちょっと噛みしめて、どこへともなく落としていく。
マイクロ小さな一瞬の旅から、日常生活に戻ってくる。
ほんのすこし、痕が残る。

 

「読解アヘン」というサイトで時々更新される、前後編の短編漫画が好きだ。
http://dka-hero.com/

「傘をひらいて、空を」というブログサイトで不定期に更新される短い話が好きだ。

http://kasasora.hatenablog.com/

望月花梨という少女漫画の作家の作品が好きだった。
https://twitter.com/hashtag/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E8%8A%B1%E6%A2%A8

 

湿度を含んだ紙に触れたときのような、
夏の気配感じる夜を散歩に出かけたときのような、
はっきりと形になっていない感情がごちゃまぜになっている感じ。