(325)つながれ、深まれ、ぶくぶくと

毎日思いつくことを書きなぐっていると、自分の中の「言葉にしたい欲」がだんだんと収まってくるのを感じる。快と不快の軸だけで見れば、落ち着きを取り戻して、一旦は処理したと言えるだろう。SNS時代に溢れる無数の「表現」の多くは、そのような、自分の表象を吐き出したい欲に突き動かされているように思う。それはそれで、食器を洗ったり、ゴミを捨てたりするように、生活を維持するために大切なことだ。だけど、それにとどまっていて、吐き出した言葉を流してしまっていると、変わることはできない。表象から出た言葉を見直して、また感じるものがある。そういう往復の作業を積み重ね、反芻することで、はじめに気づかなかった可能性や、自分の隠れていた想いに気づけるようになることもある。まず言葉にすることが1段目なら、それを取り扱うことは2段目になる。生活が忙しいと1段目すらおぼつかないが、1段目まで行ったとしても、そこから2段目に行けずに何度も空を切ることがままある。考えが深まらず、どうどう廻りのループに陥る。この作業を他人と話しながらすること、他者の要素が触媒となって、自分が吐き出したものが変化する。あるいはホルマリンのように、変化せずに受け止めることができたりする。一方で話し言葉のやりとりはワーキングメモリを圧迫し、言葉が消えていってしまうこともある。カウンセラーは、大事だと思う情報を拾ったら、たとえクライアントの意識から消えてしまっていても、それをとどめて、リマインドすることができる。そうやって、作業が進んでいく。
10月の最後の週が始まる。お風呂が冷めるのが早くなった気がする。風呂あがり、浴室の外で体を拭いていたのが、寒くて浴室の中で拭きたくなる。バスタオルの臭いを気にして、それまで2回使って洗濯に回していたのを、夏前くらいから1回使って洗濯に回すようにした。バスタオルはかさばるので、洗濯の頻度は増えたがそんなに負担にはなっていない。ときどき洗濯機に入れたままで乾燥機に移すのを忘れてしまう。秋がやってきて、2回使いに戻そうかどうしようか。まあどっちでもいいんだけど。それよりも、浴室の床をひっくり返しての掃除を、はじめは半年ごとにやっていたのを、毎月やるというチャレンジが続けられるかが気になっている。浴室は、もはやベッド以上に睡眠の場になっているソファに次いで、自分が家の中で過ごす時間の長い場所になっている。家のメンテナンスの中で、浴室の優先順位は間違いなく高い。日、月、火と、珍しくベッドで寝る日が続く。ベッド自体の寝心地はともかく、ベッドで寝るときは部屋の電気を消すので、真っ暗な中で眠るというのがいい。寝るが眠るになる気がする。
プライベートなインターネット通信の手段を、毎月100GBまで利用できるというポケットワイファイにして、半年以上1年未満くらい経った。これが、月末になるとなんとなく通信速度が遅くなるような気がして、結局100GBの半分も使えないので、半分詐欺だなと思っていたら、最近特に速度が遅くて、またかと思っていたら、なんと使用量が100GBを超えていた。これまであまり気にせず使っていても100GBを超えることはなかったので少し驚いた。要因はおそらく、子の園の様子を配信した動画を、大容量ファイル転送サービスを使ってダウンロードして、何度も失敗してやり直したりしていたことだろう。この家に通っていた回線は、解約しようと思っていたので線を抜いてしまったが、慌てて差し直して1週間を乗り切ろうとしている。

(324)お祝い俊二

月曜に子の用事で時間休を取ったとき、すこしだけ余った時間で喫茶店に入って、整体の予約と美容院の予約をした。おもしろそうなウェブセミナーを申し込むこともできた。仕事の時間は仕事のことを考えていて、生活の時間は生活のことを考えている。両者の時間をぐるぐると回っていると、どっちの時間にもなかなか考えにくいことがあって、それはいつまでも頭の隅っこで順番待ちをしている。丸一日休暇を取ってしまうと、それは休日、つまり生活の時間になってしまう。時間休を取ると、仕事の時間にも生活の時間にもならない時間がぬるっと生み出される。12色の絵の具で絵を描いていたら、突然13色目の絵の具が登場して、そうそう実はこんな色が欲しかったんだよねみたいな感じ。そこで、ひそかにわだかまっていたものが具体に降りる機会を得たりする。だからわたしは時間休が好きなのだ。
週末のイベントに向けて準備をしていた。予定している場所はあまり馴染みがなかったので、下見をすることにした。着いた頃にはもう夕方で、あまり時間がなかったけれど、その時間帯ならではのものを見ることができた。インタネットやその他の情報収集のテクニックがあれば代替できるのかもしれないが、やっぱり現地に足を運んで得られるものは大きい。たぶん情報が一次的なので、自分なりの受け取り方ができるところがよいのだろう。整形された情報は、その内容も、形式も、ある種の要請がひっついてきて、それをきゅうくつに感じることはある。
食べもののお店を探すのがとても苦手だ。腹に溜まりゃあいいみたいな、根本的にセンスのない価値観を私が持っているからなんじゃないかと思う。私に与えられた認知機能の余剰部分を使って、最低限のことはできるんだけど、最低限みが半端ない。それでも人に相談しながら、いくつかの候補の中から優先順位をつけてもらって、なんとか予約を取ることができた。面白かったのが、予約を取ろうと電話をかけたら、「コノ時間帯ハ私ガ対応シマス」と機械的な音声の応答があり、彼女とのやりとりで時間帯や人数の予約が完了したこと。こちらで勝手に機械応答だと決めつけているが、声色をよく訓練された人間なのかもしれない。クレーム対応のときにやったら余計怒られるだろうか。
プレゼントを選ぶのは、食べもののお店を探すよりもはるかに苦手だ。具体的に指定してもらえるととても気が楽だが、指定されたプレゼントと指定されてないプレゼントでは、同じ言葉で呼ぶのをためらうほど異なるもののように思う。両方のいいとこどりをするために、指定されたものと指定されてないものを両方選ぶことにする。プレゼントを選ぶのは苦手と書いたけど、プレゼントをあげようと思うくらいには好意を持っている人のプレゼントを選ぶために、その人のことを思い返しながら、特にその人が好きそうなもの、喜びそうなものに焦点を当てて、ぼんやりとしたところからいくつかアイデアが湧いてきて、それらに出会えそうなお店に漠然と足を運んでみて、具体的な陳列を見ながら「これこれ!」とか、「ちょっと違うんだよな…」とか思いながら、最終的に1つか2つ(予備含め)選んでいくプロセスは、嫌いではない。ただ、そうやって選んだものが相手にとってもらってうれしいものかどうかはまた別の話で、それがそれなりに噛み合っていればいい話なのだけど、完全に1人の世界で滑りまくっていると、痛々しいことになる。
人は他人のことを100%理解することなどできはしないだろうが、あたかも100%理解されているかのように、言ってもいないことにぴったり寄せてきてくれるようなこともあれば、どうしたらそんな結論になるのかがまったく想像もつかないほどの誤解が爆誕することもある。その間に、誤解に至る経路の想像がつく誤解、その人の視点で考えたらそういう結論に至るよなとわかることもある。それもさらに2種類に分けられて、自分の視点で考えたことが正解だと思いこんでいる場合と、相手のことがよくわからないから、自分の視点で考えるしかないみたいな諦めの産物である場合がある。自分の視点がずれがちであることを踏まえていれば、悪さを抑える方法はそれなりにあるのではないかと思う。

(323)「コンサル」

夜中になぐり書きした文章は、翌朝見てみると粗が目立つ。そう思っているのは自分だけで、昼間に書いた文章だって、粗だらけなのかもしれない。推敲するということを忘れずにいつつ、いまはそのまま垂れ流すことを自分で黙認する。
コンサルタントという仕事のことを考えている。私が働いている会社の若手がぽろぽろと退職している。あまり突っ込んだ事情を書くとコンプライアンス的にまずいのかもしれないが、突っ込んだ事情なんか知らない。それぞれに理由があって、まあでもなにかしら嫌なことはあったのだろう。退職後の人生で、次の仕事をすでに決めてる人が多そうで、たまたま行き先を聞けた場合に、コンサル企業に行くのだということをしばしば聞いて、コンサルとはなんぞや?と思うようになった。
コンサルとは、相談に乗る人。経営コンサルとか、人事コンサルとか、細かくはいろいろあるけれど、おそらく仕事に関する相談をする。相談だけでなく、さまざまな解決法を提案したり、その解決法の実行にまで踏み込む場合もあるようだ。カウンセラーとか、ソーシャルワーカーとかが、個人を支援する専門家ならば、コンサルは企業を支援する。
最近立て続けにKindleを買っている漫画で「フラジャイル」という作品がある。病院の病理医が主人公で、私は病理医という仕事があることを初めて知った。臨床医と違って特定の患者さんの担当を持たず、検査で採取された細胞を観察して診断を行ったり、患者の死後に病理解剖を行い、診断や治療が適切であったかを確認したりするらしい。野木亜紀子脚本のテレビドラマ「アンナチュラル」の主人公は解剖ばかりやっていたけど、職域は近いのかもしれない。そのフラジャイルに、病院の経営に意見をするコンサルが登場する。彼なりの信念があって、病院の他のスタッフの反感を買うことをいとわず、自分の思い通りに人を動かそうとしたり、経営陣に持ちかけて現場の反対を押し切ったり、かと思えば主人公の鋭い指摘を受けて自分のやり方を見直したりする。
最近職場の部署が変わって、ある部署の窓口を担当するようになった。といっても、窓口業務は部下の人たちがやってくれる。一方で課が担当している業務には、それぞれ別の担当者がいる。担当者がいる中で、自分がやれることはなんだろうかと思ったとき、コンサル的な動き方なのではないかと漠然と考えている。コンサルというのは、外部だけれど、一時的に内部に招いて、内部のことに関わる。それよりはもっと内部な自覚はあるけれど、境界線は幾重にも巻かれていて、担当者から見れば私も外部に見えるかもしれない。実際、私が担当者の立場だったときには、窓口にいる人を外部扱いしていた。
組織開発とか、組織学習とか、学習する組織とか、もっと言えば組織論、マネジメントもそうだけど、人が何人かいるときに、その人たちでよい仕事をするにはどうすればいいか。それぞれ実際に果たす役割がある。あらかじめ役割分担が決められている部分もあるし、そのとおりに行かなかったり、属人的に役割が展開していくこともある。そのような中でのひとつの役割として、カッコ書きの「コンサル」というものを置いてみる。まだ中身はよくわからない。担当者ならばやるべきことでも、「コンサル」はやるべきでないことかもしれない。担当者に対する「コンサル」と、部下に対するマネジメントは、一定共通するところがあるみたいだ。私が社会というものが気になっているのは、組織に採用されて、集団でなにかをするということを10年間それなりにやってきたからなのかもしれない。

(322)人間関係

これを書くのもどうなのかという話なんだけど、人とやりとりすることが本当にうまくいかないことがあって、まあとにかくうまくいかないことがある。
「時々声をかけてくれる、距離感のここちよい友人と、久々に映画を見に行って散歩してお茶をしたりする。」と書いた映画は、「終わりの見えない闘い−新型コロナウイルス感染症と保健所−」という、真面目な、ドキュメンタリーだった。私は映画をめったに観に行かなくて、今年初めてではなかったかもしれないけど、「前に見た映画は?」と聞かれて思い出せないくらい縁が遠いが、そういえばエヴァンゲリオンの映画は緊急事態宣言が解除されたタイミングで見たのが前だった。ある有名なアニメ映画監督の新作を見に行かないかと誘ってもらったのだけど、予告編を見て好みじゃなさそうだったので、断ってしまった。好みでなさそうな予感がする映画を見に行って、やっぱり好みでなかったときの苦痛は相当だ。人と見に行って、相手はその作品を面白いと思っていたときのつらさったらない。一緒に見に行った映画の好みが全く割れていても心地よい時間を維持できるのは、相当に成熟した関係だと思う。
映画のことは、たぶんきっかけにすぎない。そういったボタンの掛け違いが、ひたすらに起き続ける。言葉にしなきゃ伝わらないし、言葉にしても伝わらない。こっちも理解できないか、理解できても受け止められない。普段、自分の表現したいことを言葉にしたり、相手の言葉を理解したりすることを自由自在にできているように錯覚しているが、私の言葉の表現力と理解力には射程範囲、守備範囲があって、そこをはみでるものを表したり、拾おうとすると、途端にちぐはぐになり出す。一種のミスマッチなんだろうと思う。
不安や恐怖や疑念、うんざりやげっそり、そういう感情がひとたび生じてしまうと、認知も構えてしまって、防衛的な方向に偏りだす。そこで偏らずにいられるのは、一種の強さなのかもしれないが、逆説的に、そういう構えはさらにそういう感情を再生産して、余計にダメージを負いがちだ。誰かに傷つきが生じたとき、それに原因があるのはわかる。悪さをするものがある。だけど、それを人に貼り付けて、「被害者」「加害者」という概念を生み出すと、すこしどろりとしたものが流れる。人間の認知のパターンとして、そういう型がとてもとらえやすいというのはわかる。だけどそれは、理解のためのものであって、正しくないかもしれないし、人を幸せにしないかもしれない。そんな疑いというか、問題意識を最近持っている(一方で、なんでも構造で捉えるという構えも同じくらい問題だと思っている)。
対人的に関わることは、自然体でうまくできる人も、どう逆立ちしてもできない人もいる中で、がっつりMPを消費することでそれなりにできる人もいる。そういう人は、ほかの事情でMPが削られていたり、そもそもの基本MPが少なくなっていると、がっつり消費できないので、パンクする。いかにしてMPが底を尽きないようにするかというのが、人生を適応する上での最重要な観点のひとつだと思っている。自然体でできる人は、そんなこと気にする必要はないけど、自然体だと自分では思っているけど実は結構消耗している人もいるし、自然体に見せかけているけど結構消耗していることを自覚しつつ、それをおくびにも出さないようにしている人もいる。
基本OSのアップデートは、時間がかかってもやらなければならないと思っている。それはそれで成果の見えにくい道のりではあるが、そうしている間にも人生は続くので、必要なときはMPを温存したり、被害を抑えるテクニックを身に着けたりする必要がある。こじれた相手とは縁を切るということをしたくない(ORできない)ときにどうするか。それは別に、さまざまな場面で問題となることなのだ。

(321)カウンセリングみたいな話

今月をばたばたしていたら、半分過ぎてしまったと思っていたら、3週間すぎていた。時間が経つのはとても早い。今年に入ってから100日分の記事を毎日更新していて、しばらく更新を休んでいて、週1くらいで更新することがしばらく続いて。年末にかけては更新数が200に届くことを目指そうかなと思っていた瞬間もあったけど、日々の忙しさにかまけて全然更新できずにいた。同じ日に複数記事を書くのはなんとなく嫌なので、いまから頑張っても200には届かない。それはまあ、別にどうだっていいのだが、私がブログを書くということに込めている、生活の中に、ふりかえる時間を編み込みたいという野望や欲求のほうは、どうだっていいとは思えない。日々を積み上げていきたい。失敗を何度も繰り返したくない。人生をよりよく生きたい。そのために必要な作業だと思っている。これは、カウンセリングという活動・現象と、本質的には近いんじゃないかと思っている。
カウンセリングが必要な人と、そんなに必要じゃない人がいる。カウンセリングはうまくいくことも、うまくいかないこともある。カウンセリングを担当してもらうカウンセラーとは、合うことも合わないこともある。カウンセリングの時間の最初には、「今日話したいことはありますか?」という投げかけが行われることがある。クライアントは何を想って、その言葉を受けて何を持ち込むのだろう。それは、そのことが言葉にされるのは、なぜカウンセリングの時間を待たなければならなかったのだろう。人は、日々の生活の中で、いろんなシチュエーションを生きている。いろんな役割を生きている。そこでは、やらなければならないことをやったり、欲望を満たしたりしている。欲望を満たすのは自分の好きにやっているようだけど、それも本当に好き勝手にやれるわけではない。ある程度の制約の中で、やれることとやれないことがある中で、自分の欲望や、あるいは感性に響くものを選択することが許されているだけだ。カウンセリングの時間の中でできること、生じることは、それ以外の生活の時間の中ではなかなかやりにくいけど、でもそれをやることが大切なものなのだろう。カウンセラーは、それがうまく生じるようにするための仕事をする。
今月の頭、インターネットのサービスを使って、カウンセリングオフィスを経営している人と話をする機会があった。ついこないだには、クローズドな勉強会のスピンオフとして開催している懇親会で、紆余曲折を経てカウンセラーとしてキャリアを積み重ねている人の話を聞く機会があった。人間にとって、カウンセリングというものの意味はなんだろうか、ということを、ちょっと想う。いまさらに、想う。最近、ソーシャルワーカーという、カウンセラーと対人援助職という点では共通するが、また異なる専門職について書かれた本の読書会に参加して、思うところがあった。それを業とする人がいるということは、それを必要としている人がいる。カウンセリングで生じることは、専門家のサービスでなければ、専門家を触媒にしなければ生じさせることはできないのだろうか。あるいは、カウンセリングを必要としない人は、自分自身、または身近な誰かとの関係性の中で、同様の現象を生じさせることができるのだろうか。あるいは、そもそもカウンセリングが必要な状況に置かれる人とそうでない人がいるのだろうか。後者については、私はそんなことないと思うが、それはなんていうか、だいぶ偏った考えに思う。前者は、自分でなんとかしたいという気持ちの強さかもしれないが、世の中で一般的に提供されているカウンセリングサービスというものが、私がその現象を生じさせるためにあまり向いていないということなのかもしれないとも思う。世の中に溢れている階段という移動のための道具は、足の不自由な人にとって使い勝手が悪い。移動したいニーズは等しくあるのだけど、社会のテンプレートと自分のありようがマッチしないのだ。そういうものじゃないかと思っている。決して自分でやりたいわけじゃないけど、市場に合うものがないのだから、自ら作るしかないじゃないか。

(320)ライゴウゾン

9月の末にブログを更新してから、半月以上更新できていなかった。
職場でやることが変わって、新しく覚えねばならないことをインプットしたり、情報を整理していたら、毎日の帰宅時間がナチュラルに遅くなって、月半ばで超勤がちょいといかついことになった(上を見ればいくらでもなのは言うまでもない)。

★★★

自炊が全然できていないのは前から変わらないが、寝不足な状態が慢性的に続いている。家事は朝の時間や、予定のない週末の時間を使って、まだそれなりにできている気がしているけど、テキストを開くのはしばらくできていない。それから、コバエがまた出るようになった。去年の今頃に引っ越してきたときもひどかったが、地道に処理していたらあまり出なくなったので、ほぼ絶滅したのかと思っていた。暑い季節に出るイメージだったが、むしろ涼しくなってから活動するなにかがあるのかもしれない。ハウスクリーニングのチラシが郵便受けに入っていたが、信頼できるところなのかためらいがある。
しばらく通っていた体のメンテナンスが一区切りし、まだ主訴は残っているので別のところの予約をまた入れる。1か月はできていなかった外周を久しぶりにやる。上着を羽織るくらいには涼しいが、上着は汗でびちゃびちゃになる。ストレッチの頻度を増やそうと思う。
先週末に雨がふり、一気に季節が進んだ。Tシャツ1枚で夜に出歩けないようになり、扇風機と入れ替わりにヒーターが登場した。

★★★

平日の勉強会は参加できなかったものがちらほらあるが、週末には定例ではないイベントにも参加できた。読みたい本が溜まっていっている。職場で企画している勉強会は、着々と準備が進みつつも、グループワークの内容が固まらなかったり、開催時間の制約があったり、情報共有が止まっていたり、それなりに課題はある。

★★★

親と食事して、頼み事をしたりされたり。祖母とテレビ電話で話したり。子の園の様子を垣間見たり、新しい公園を開拓したり、お祝い事に向けて下見をしたり。時々声をかけてくれる、距離感のここちよい友人と、久々に映画を見に行って散歩してお茶をしたりする。

★★★

ふりかえるといろいろあった。もうすこし掘り下げたいものもちらほらあるので、トピック的にとりあげてもいい。今朝この作業ができたのはうれしいことだが、もうちょっとこまめにできることを目指していこう。これから選挙があったり、関われていなかった演劇に参加したりする。ととのえて、さだめて、うごく。ふりかえる。

 

(319)火花

現金の生活費を毎月おろしていて、今月はなにかと支出が多くて不足気味だったのだけど、なんとか頑張れば乗り切れるかなといった感じだったので、平日に自炊をして、食費を節約しようとする。1日1食自炊するくらい、そんなに意識せずにやれるようになってほしいのだが、不器用なこの肉体はそうなっていない。自炊というのもおこがましいが、ほかに呼びようがないし、目的は果たしているので、私はそれを自炊と呼んで、自己評価している。

★★★

すこし前に図書館で借りた「家事の基本大事典」がすごいよかったので、本屋で買おうとして、アプリで在庫検索をしたら、すこし違うタイトルの本をお薦めされた。その、同じ成美堂出版から出ていた「いちばんわかりやすい 家事のきほん大事典」は、おそらく最初に出会った本のバージョン違いなのだろう。自分の人生の身近なところにあって、でもよくわからないままにしてしまっていたことが、とてもわかりやすく書いてある。同じものを見ても、そこから得られる情報が段違いになる。まだ「掃除」の章を読んだだけだが、風呂場に2つも洗剤があった意味がようやくわかった。袋を買ったきり使えていなかった重曹とアルミホイルで、IHコンロの焦げ付きを落とす。やってみたいことがいくらでも湧いてくる。

職場の人から教えてもらったゴッドハンド3回目。激的に痛みがよくなるわけではないが、「まあ10年以上ほったらかしにしてたのだから、10回くらいは通わないと変わらないのかな」とか思っていたら、定期的な通院はこれでおしまいと言われる。むむ。段々寒くなってきて、これから痛みも強くなってくるだろうし、もうひとつ教えてもらったところの予約を取ってみようと思っている。

★★★

大事な振り込みができていなかったことの指摘をもらい慌てて対応したり、苦い思い出のたくさんある建物に半年ぶりに赴いて事務書類を手に入れたり。腹筋に力を入れることで、なんとか乗り切れることはあるが、ずっとそれをやってると凝り固まってしまう。

バーチャルランチクラブとか、GRAVITYとかConnectingとか、そういうなにやかにやにちょいちょい手を出している。自分とは全然違う人間がいくらでもいるということを、オンラインで多少差っ引かれはしても、それでも圧倒的なリアリティで感じる。いかにデフォルトの生活が、限られた人としか関わっていないかということだ。関わっている人のバリエーションだけでなく、関わりの内容も大いに要改善なのだが、それはまたそれで。量が質を産む的なところも一部はあると思っているが、私は人よりそれが生じにくい気がする。

★★★

仕事のことで、具体的なことはほとんど書かないようにしているのだけど、一堂が介していないことで間接情報が多くなるのがボトルネックになりかねないと思っている。直接聞いたならば疑問点をその場で確認できるけど、間接情報だと、メッセンジャーの人が確認していないことはその場で確認できない。それでも気になったことを発信者にすぐに確認できるならばいいが、なんかいまはそうでもない。自分で勝手にそうでもないと思っているだけで、実際にはそんなことないのかもしれない。組織内のコミュニケーションの設計はすごく興味があって、解像度を上げて実践していきたい。そんなわけで、MIMIGURICULTIBASE Labが気になっている。10月こそは、何か始める。