(321)カウンセリングみたいな話

今月をばたばたしていたら、半分過ぎてしまったと思っていたら、3週間すぎていた。時間が経つのはとても早い。今年に入ってから100日分の記事を毎日更新していて、しばらく更新を休んでいて、週1くらいで更新することがしばらく続いて。年末にかけては更新数が200に届くことを目指そうかなと思っていた瞬間もあったけど、日々の忙しさにかまけて全然更新できずにいた。同じ日に複数記事を書くのはなんとなく嫌なので、いまから頑張っても200には届かない。それはまあ、別にどうだっていいのだが、私がブログを書くということに込めている、生活の中に、ふりかえる時間を編み込みたいという野望や欲求のほうは、どうだっていいとは思えない。日々を積み上げていきたい。失敗を何度も繰り返したくない。人生をよりよく生きたい。そのために必要な作業だと思っている。これは、カウンセリングという活動・現象と、本質的には近いんじゃないかと思っている。
カウンセリングが必要な人と、そんなに必要じゃない人がいる。カウンセリングはうまくいくことも、うまくいかないこともある。カウンセリングを担当してもらうカウンセラーとは、合うことも合わないこともある。カウンセリングの時間の最初には、「今日話したいことはありますか?」という投げかけが行われることがある。クライアントは何を想って、その言葉を受けて何を持ち込むのだろう。それは、そのことが言葉にされるのは、なぜカウンセリングの時間を待たなければならなかったのだろう。人は、日々の生活の中で、いろんなシチュエーションを生きている。いろんな役割を生きている。そこでは、やらなければならないことをやったり、欲望を満たしたりしている。欲望を満たすのは自分の好きにやっているようだけど、それも本当に好き勝手にやれるわけではない。ある程度の制約の中で、やれることとやれないことがある中で、自分の欲望や、あるいは感性に響くものを選択することが許されているだけだ。カウンセリングの時間の中でできること、生じることは、それ以外の生活の時間の中ではなかなかやりにくいけど、でもそれをやることが大切なものなのだろう。カウンセラーは、それがうまく生じるようにするための仕事をする。
今月の頭、インターネットのサービスを使って、カウンセリングオフィスを経営している人と話をする機会があった。ついこないだには、クローズドな勉強会のスピンオフとして開催している懇親会で、紆余曲折を経てカウンセラーとしてキャリアを積み重ねている人の話を聞く機会があった。人間にとって、カウンセリングというものの意味はなんだろうか、ということを、ちょっと想う。いまさらに、想う。最近、ソーシャルワーカーという、カウンセラーと対人援助職という点では共通するが、また異なる専門職について書かれた本の読書会に参加して、思うところがあった。それを業とする人がいるということは、それを必要としている人がいる。カウンセリングで生じることは、専門家のサービスでなければ、専門家を触媒にしなければ生じさせることはできないのだろうか。あるいは、カウンセリングを必要としない人は、自分自身、または身近な誰かとの関係性の中で、同様の現象を生じさせることができるのだろうか。あるいは、そもそもカウンセリングが必要な状況に置かれる人とそうでない人がいるのだろうか。後者については、私はそんなことないと思うが、それはなんていうか、だいぶ偏った考えに思う。前者は、自分でなんとかしたいという気持ちの強さかもしれないが、世の中で一般的に提供されているカウンセリングサービスというものが、私がその現象を生じさせるためにあまり向いていないということなのかもしれないとも思う。世の中に溢れている階段という移動のための道具は、足の不自由な人にとって使い勝手が悪い。移動したいニーズは等しくあるのだけど、社会のテンプレートと自分のありようがマッチしないのだ。そういうものじゃないかと思っている。決して自分でやりたいわけじゃないけど、市場に合うものがないのだから、自ら作るしかないじゃないか。