(322)人間関係

これを書くのもどうなのかという話なんだけど、人とやりとりすることが本当にうまくいかないことがあって、まあとにかくうまくいかないことがある。
「時々声をかけてくれる、距離感のここちよい友人と、久々に映画を見に行って散歩してお茶をしたりする。」と書いた映画は、「終わりの見えない闘い−新型コロナウイルス感染症と保健所−」という、真面目な、ドキュメンタリーだった。私は映画をめったに観に行かなくて、今年初めてではなかったかもしれないけど、「前に見た映画は?」と聞かれて思い出せないくらい縁が遠いが、そういえばエヴァンゲリオンの映画は緊急事態宣言が解除されたタイミングで見たのが前だった。ある有名なアニメ映画監督の新作を見に行かないかと誘ってもらったのだけど、予告編を見て好みじゃなさそうだったので、断ってしまった。好みでなさそうな予感がする映画を見に行って、やっぱり好みでなかったときの苦痛は相当だ。人と見に行って、相手はその作品を面白いと思っていたときのつらさったらない。一緒に見に行った映画の好みが全く割れていても心地よい時間を維持できるのは、相当に成熟した関係だと思う。
映画のことは、たぶんきっかけにすぎない。そういったボタンの掛け違いが、ひたすらに起き続ける。言葉にしなきゃ伝わらないし、言葉にしても伝わらない。こっちも理解できないか、理解できても受け止められない。普段、自分の表現したいことを言葉にしたり、相手の言葉を理解したりすることを自由自在にできているように錯覚しているが、私の言葉の表現力と理解力には射程範囲、守備範囲があって、そこをはみでるものを表したり、拾おうとすると、途端にちぐはぐになり出す。一種のミスマッチなんだろうと思う。
不安や恐怖や疑念、うんざりやげっそり、そういう感情がひとたび生じてしまうと、認知も構えてしまって、防衛的な方向に偏りだす。そこで偏らずにいられるのは、一種の強さなのかもしれないが、逆説的に、そういう構えはさらにそういう感情を再生産して、余計にダメージを負いがちだ。誰かに傷つきが生じたとき、それに原因があるのはわかる。悪さをするものがある。だけど、それを人に貼り付けて、「被害者」「加害者」という概念を生み出すと、すこしどろりとしたものが流れる。人間の認知のパターンとして、そういう型がとてもとらえやすいというのはわかる。だけどそれは、理解のためのものであって、正しくないかもしれないし、人を幸せにしないかもしれない。そんな疑いというか、問題意識を最近持っている(一方で、なんでも構造で捉えるという構えも同じくらい問題だと思っている)。
対人的に関わることは、自然体でうまくできる人も、どう逆立ちしてもできない人もいる中で、がっつりMPを消費することでそれなりにできる人もいる。そういう人は、ほかの事情でMPが削られていたり、そもそもの基本MPが少なくなっていると、がっつり消費できないので、パンクする。いかにしてMPが底を尽きないようにするかというのが、人生を適応する上での最重要な観点のひとつだと思っている。自然体でできる人は、そんなこと気にする必要はないけど、自然体だと自分では思っているけど実は結構消耗している人もいるし、自然体に見せかけているけど結構消耗していることを自覚しつつ、それをおくびにも出さないようにしている人もいる。
基本OSのアップデートは、時間がかかってもやらなければならないと思っている。それはそれで成果の見えにくい道のりではあるが、そうしている間にも人生は続くので、必要なときはMPを温存したり、被害を抑えるテクニックを身に着けたりする必要がある。こじれた相手とは縁を切るということをしたくない(ORできない)ときにどうするか。それは別に、さまざまな場面で問題となることなのだ。