(402)断片的なところから

物事の認識のしかたや、コミュニケーションのスタイルには個人差があって、よさも悪さもする。発達障害のある人の支援の文脈では、視覚優位・聴覚優位・言語優位みたいな言葉を使うこともあるけど、もっといろんな観点がある。認識やコミュニケーションのレパートリーが沢山あって、その場その場で最適なものを選んで合わせていける人もいれば、ある限られたやり方をどんな場面でも使う人もいる。後者は、環境とうまくはまると能力を発揮できるが、そうでないとボロボロになったりする。ある場面でのその人の評価と、別の場面でのその人の評価がちぐはぐに見える。それをむりやりまとめるために、「気分屋」だとか「一貫性がない」と見られることもある。でも実は、本人のほうは一貫していて、目まぐるしく変わっているのは環境なのだ。逆に前者の人は、本人がくるくると変わることで、環境との関係性を一定のものに保っている。

 

わたしの認識やコミュニケーションのかたちは、どうやらだいぶ偏っている。どういう意味かというと、さっきの話の後者に近いということだ。レパートリーの少ない人は、自分の数少ないあるいは唯一のレパートリーがどんな特徴を持っているのかを、よく知っておくことがすごく大事になる。レパートリーが多い人にだって同じことは言えるが、レパートリーが少ない人にとっては死活問題となる。自分のレパートリーを知って、それが環境とのミスマッチで悪さをしないように、弱点を補強するトレーニングをする。あるいは、環境を選択・調整する。それらは自力でやるだけでなく、支援者やその他リソースを借りることもできる。それでもまるっきり人任せにしてしまうとあまりうまくいかないことが多くて、自分でできるところは自分でやることが重要だと思っている。

 

わたしの物事の認識は、すごく断片的なところを基本にしている。ジグソーパズルとか、ブロックみたいなものは、ひとつひとつに意味があるというより、組み合わさったときに重要な意味を持つ。現実の世の中も似たようなところがあって、大事なところを捉えるためには、ある程度のかたまりで情報をとらえる必要があるのだけど、わたしが注意を向けられる範囲はだいたいそれよりも少ない。だから大いにとりこぼす。
情報がリアルタイム、動的なものだと、取りこぼしたものはもう拾えない。対面でのコミュニケーションは基本的に動的で、だから大事なものを見逃す。わたしは特に、言語的な情報を優先して受け取り、そうでない情報を見逃す傾向が強く、さらには(非言語の)視覚的な情報を見逃しがちなので、人の顔色の変化に全然気づかない。声色の変化のほうがまだちょっとだけましだ。
情報が静的で、あとから見直すことができるものだと、一度に全部は受け取れなくても、順繰りに拾っていくことができる。それでも時間がだいぶかかってしまうのだが、文字情報であれば処理速度はそれなりに速いと思っている。それから、論理的な構造を捉えるのも強いほうだと思うので、論理的な文章はだいぶ理解しやすい。逆に、言語であっても、詩のような、論理でないところで紡がれる文章は、受け取るのにとても時間がかかる。

 

このブログは、わたしが世界を認識しているさまを書き連ねて、忘れてしまっても読み返せるようにして、そうして少しずつでも、よりよく生きていけるようになることを目指している。その方法として、ひとつのエントリにひとつ、自分の気になる概念・キーワードを取り上げて、それについて考えるということをしてみる。

これらのブロックが積み上がったとき、どんなものができるかは全然見えていないが、なんかよいものになるんじゃないかと、なんとなく思っている。