(244)走って婆ってチョコって学ぶ

最近、土曜日がとってもおもしろい。

朝は定例の外周(ジョギング)。通勤の線路とほぼ同じ路線をなぞろうと思ったら、イメージしていたのと1本違っていた。先週も1本間違えてしまっていた。思い違いがチューニングされる。空白の地図に、町の名前が書きこまれる。なんか面白そうなお店を通りすぎる。これを土曜日でなくて平日の朝にできたり、ましてや土曜日と平日の朝の両方にできたりしたら、どうだろうか。どうもこうもないのだが、私の24/7の中のバランスを見計らっている。

祖母の部屋とテレビ電話でつなぐ話を続けているが、事前にアナウンスをしなかったら戸惑ってしまい、失敗。本人の安心感とかモチベーションを一番大切にしながら、新しい可能性をそろそろりと拓いていけるといい。アイパッドとパソコンを組み合わせて、写真とテキストの共有ができるしくみもちょっと考えてみたが、それはもうすこし工夫が必要そう。

バレンタインデーや、その日にやることは自分が生まれたときから変わってないが、自分にとっての意味付けは生きていると変わってくる。生まれて初めて手作りチョコを作ろうとしていて、市販のチョコを溶かして型に入れ直せばいいと思っていたら、ネットにはそれは邪道派、いいけど実はけっこう難しい派などがいらしって、とにかく水が入らないようにするのと、温度が高くなりすぎないように湯煎することを気をつけた。テンパリングはした方がいいと書いてあったけど、温度計がなかったので、風呂の温度よりちょっと熱いくらいでいいかなと手抜きをした。個人的には苦めのチョコをオレンジピールにコーティングしたものが好きなのだが、それの超簡易版みたいなものを作ってよいことにした。人のために何かを作るときは、ちょっとだけ自分のためのものも一緒に作ると、モチベーションのバランスがちょうどよい感じになる気がしている。

夕方からはオンラインの予定が3連発。障害とクィアを扱う英語の本の読書会と、夜学バーのJackyさんが登壇するオンライントークイベントと、オンラインサロンの資本主義をテーマにした座談会。資本主義のことは、先週の別の勉強会でも取り上げられていて、Choose Life Projectでも取り上げられたりしているし(まだ観てないけど)、私たち(大きめの主語)が何かよいことをやろうとしたときに大前提としている、相当根っこの部分に関わることのような気がしている。つまり、大前提がこうだと思ってその上にもろもろのことを積み上げているけれど、もはやその大前提が変わってしまっているがゆえに、私たちがよいことだと思ってやっていることが空回ってしまっているのではないかということ。今日思ったのは、資本主義がいろいろと悪さをするということで、では資本主義自体をなくそうという話になるのかと思いきや、意外とそうでもなくて、資本主義の中でいかに資本主義の悪さをキャンセルするかという話で語られることも多いのかなと気づいた。つまり、病気の治療をやめるのではなくて、副作用を抑える薬を飲むようなものだ。でも、治療の方法を変えようという話もありうるんじゃないか。それって、結局資本主義を社会主義に変質させるような制度を設けるっていうことなのか?ていうか資本主義がこれだけ目の敵にされてるのって、お金を稼がないと生活していけないのが資本主義のせいで、お金を稼ぐためには人生の多くの時間を労働についやさねばならないとか、生産性を追求するのは資本主義のせいで、いわゆる生産性が低いとされている人たちが採用されず、就労機会を得ることができないとか、それだけではないんだろうけど、今日はそういう文脈が目立っていたように思う。

まだちょっと、ピンと来てないというか、自分ごとになるためにはあと何枚か壁があるような気がしていて、ていねいにめくっていきたいと思っている。資本主義がなくなったら?お金というものがなくなって、お金で買えていたものが買えなくなってしまうの?それはよくわからないけど、なんだか困ったことになりそうな気もする?うーん、わからないことだらけ。