(264)3月の5日間

年度末らしく、追われるように仕事に追われる。そういえば先週のことがあってからもう1週間経ったのか。まだ1週間しか経ってないのか。表面的には特に大きな心境の変化は生じてないように思えるが、きっと、そんなことはないので、自分の気づかないところで、プロセスは進んでいて、ある日ふっとORどっと自覚するのだろう。備えをしたいという気持ちはあるが、今のところまだなにもやれていない。集中力が落ちている自覚はないが、帰りの時間は遅くなっているので、ぼうっとしている時間はあるのかもしれない。そういえば、ピリピリとしている時間が多いのも、そういうことなのだろうか。それって傍から見ると相当残念だよな。なんとかせねば。

読書会(その1その2)に向けて読書をしている。英語だし、内容難しいし、全然読み進まないが、未知の世界からぼんやりと意味と意味がつながっていくプロセスは、歯痒くもあり、心地よくもある。2011年のスペインで、「憤り」に由来するロス・インディニャードスという名前の集団が、緊縮財政への大規模な抗議運動を行っていたそうだ。著者はそこに居合わせ、出会い、そこでクィアと障害のことを想い、それが課題図書の執筆を含む一連の研究につながっているようだ。

私がそこで連想したのは、小沢健二の大停電の夜の話だ。普段は何か大きなルールが働いていて、そこから外れることができないでいる。だけど、大停電の夜、それまで力を持っていたものが、一瞬にして無力になる。それまでは役立たずと思われていた人たちが、急に頼もしくなってくる。環境が変わると、世界の見え方は変わる。変わる物事もあるし、変わらない物事に対しても見え方が変わる。もちろん、変わらないものもある。そういう、動きが生じる。カオスが生じる。崩れ、生まれ、組み変わる。

それは、まるで季節の変わり目のように。